「魔女の宅急便」は1989年に公開された宮崎駿監督による劇場用アニメーション作品である。
今回は多くの人を悩ませた「キキの魔法の力が弱まった問題」について考えていこうと思う。この件については様々な意見が提唱されており、その全てが解釈としては正しいと思うが、今回は私なりの考えを述べようとおもう。
誤解を恐れずその答えを一言で述べるなら・・・
キキはそもそもそんなに高く飛んでいなかったから
ということになると思う。これだけではどういうことか全くわからないと思うので、このように考える道筋を描いていこうと思う。
「魔女の宅急便」でキキの魔法の力は何故弱まったのか、そして何故そのような状況が描かれなければならなかったのか。
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【魔女の宅急便】キキの魔法の力が弱まった理由を探る
「魔女の宅急便」という物語はキキがせっかく作ったお手製の箒を否定され、母の古びた箒をもらうという印象的な事件からスタートする。
極めて自然に描かれているので「そんなもんだろ」と流してしまうのだが、なぜあのシーンから始まらなくてはならなかったのかを考えることは「キキが飛べなくなった理由」を考える上で重要であると思う。
そのためにまずは、キキがわざわざお手製の箒を作ったことの意味を考えてみよう。
自分の箒で旅立とうとすることの意味
キキが「自分の作った箒で旅に出る」ということの意味を考えてみると、それは彼女の中にある「全部自分の力で!」という若者にありがちな感覚のあられであるだろう。
いい大人になっても自分ひとりで何かをやってしまおうと思ってしまうことはあるが、それは自分の中にある「幼児性」の現れであると常に認識する必要があるだろう。一人でやるこたない、みんなでやりゃあいいんです。そして、みんな結構助けてくれるんです。
もちろん、人は「自分の力」をつけるために親元を離れるし、遠くへ旅立つし、環境を帰るのだけれど、その中で誰かに頼っては行けない理由などない。本当にない。
適切に人のちからを借りながらうまいことやっていけば良いし、そうしなければ結局大した事は出来ない。
逆に考えるならば「人に頼らなければならないほど自分が未熟であるということを理解していない」ということが若さの特徴でもあるといえるかもしれない。
物語のスタート地点のキキの姿を見れば明らかであろう。これからの旅の困難よりも輝かしい未来にしか目が向いていない。そして何より、自分ならその輝かしい未来を掴むことが出来ると信じて疑わない。「無根拠な無敵感」とでも言えばよいだろうか。
もう少しだけ言うと、キキはたった13年親の庇護のもとで蓄えた「貯金」が十分自分の未来を作ると信じていたということになる。
だからこそ、キキはそれまでの(未熟な)知見を持ってこしらえた箒で旅立つという暴挙にでることが出来た。そういったキキの未熟さが、自分のお手製の箒で旅立とうとするという行動として描かれたのである。
それまでの「貯金」の象徴としての母の箒
優しい顔をして入るが、キキの母はその旅の危険性をキチンと熟知しており「自分の箒で旅をする」という決断をしたキキの中に極めて深刻な「甘さ」を見たことだろう。
しかし、どれほど甘かったとしても旅立たねばならない。
そんな親が自分の子供してあげることといえば、餞別を渡すことだろう。なんやかんやと先立つ物がなければ旅は立ち行かない。
実際問題としていくらか渡したに違いないのだが、母が明確に渡した餞別はなんと箒であった。
ここはニュアンスの問題になってしまうのだが、あの箒が直接象徴しているのは「親から受け継いだ『血』としての才覚」ということになるように思われる。いわゆる才能というやつ。
旅立ちを迎えるキキは、まだ誰かに頼る力がないので最初のうちは「自力」で行くしかないのだが、その自力とは何かというと、
- それまでの人間関係で培った振る舞い、
- 空を飛べるという才能、
ということになるし、それしかない。「人間関係で培った振る舞い」と言っても自分を庇護するものと友達こそが「人間関係」だっわけで、そこで培ったものなど大したものではない。
後は「空を飛べるという才能」ということになるのだが、キキは「自分で作った箒」を使うことでその才能さえフルに使うことができなくなる寸前だった。母から箒をもらったことによってキキはその才能をフルに使えたのである。
また、大したものではないとしても一応それまでの人生で様々な人と関わりながら人としての経験値を貯めてはいた。
若者が旅立つ時、旅立とうとする時、その僅かな貯金に無限大の価値を見出さなくては先に進む事は出来ない(先述した「無根拠な無敵感」)。
結局、キキの母がくれた箒は、そういったそれまでキキが蓄積してきた「人生の貯金」の象徴だったのだと思う。
でも、「貯金」はいつかなくなってしまうもので。
地元じゃ負け知らず。でも・・・。
このように、キキは故郷で蓄積した人間関係と、親からもらった才能を手に旅立った。しかも本人としては自分は大したものだと思っていたのである。つまり「地元じゃ負け知らず」状態であった。
でも、高々13歳の子供にとっての「地元じゃ負け知らず」である。正直なところそれは大したものではない。
実際キキはの「無根拠な無敵感」は「海が見える街」にたどりついたその日からへし折られてしまっていた。
でも、そんなキキは、トンボ、おソノさんの出現によって意図せず人の助けを借りながらなんとか状況を維持したのである。
そんな日々を通じてようやくキキは自分の無力さを徐々に知っていったのだが、それでも「空を飛ぶ」というとんでもなく祝福された才能によってなんとか日々を過ごすことが出来ていた。
そんなときに、キキに発生した問題は2つ:
- ニシンのパイ事件、
- トンボの友達気に食わない事件
である。
「ニシンのパイ事件」は、自分の「空を飛ぶ」という能力を使った以上に「古いかまどを使える」という自分の特性を最大限に使った上に発生したものだった。それだけならまだ良かったかもしれなかったが、トンボという極めて積極的な人間関係を利用してその傷を癒そうとしたところ「なんとなくいけ好かない」トンボの人間関係を発見してしまったのである。
キキは再び、というより、人生で初めて「孤独」を感じてしまった。彼女は「これまでの『蓄積』だけではどうしようもない問題」に直面したのである。
これまでの人間関係の蓄積はなんの効力もないし、空を飛べることを特別に思ってくれるのはもはやトンボだけである。
キキはこれまで蓄積した「貯金」を使い果たし、未知の問題に取り組まなくてはならなくなったのである。
キキが空を飛べなくなった理由。
ここまでのことを踏まえると、キキが空を飛べなくなった理由も理解、あるいは飛べなくなった意味が理解できる。
つまり、すでに自分が手にしていたもの(人間関係や空を飛ぶ能力)だけではこれからの自分の人生を形成するためには全く足りないということが分かったわけである。
旅立ちのときには「空を飛べる」という特技だけでなにか輝かしい未来を作れると思い込んでいたわけだが、現実は甘くなかった。
本編中で空高く飛ぶキキの姿は「まだ現実に気づかず、それまでの蓄積だけでなんとかやってイケてる姿」という事もできるだろう。まだ自分の能力が「大したことがない」ということに気づかずにいる。
そして、その能力が「大したことのないもの」ということに気づくということを標語的に、「自分はそんなに高くとんでいなかったということに気づいた」ということも出来るのではないだろうか。
キキが空を飛べなくなったのは、自分がそれほど高く飛んでいなかったことに気がつくことが出来たからである。
宮崎駿の才能論としての「魔女の宅急便」
「キキが空を飛べなくなった理由」を考えてみると、「魔女の宅急便」という作品の中には「親から受け継いだ才能」というテーマが存在していることに気がつく。
宮崎監督本人も、元々は天才的なアニメーターとしてそのキャリアを初めており、そもそも「絵を描く」という優れた才能に恵まれていた人でもある。
さて、そんな宮崎監督にもキキのような日々はあったのだろうか?
これについては「ポニョはこうして生まれた」という制作ドキュメンタリーに興味深いワンシーンがある。
2006年5月8日に行われたスタジオジブリの新人研修の場で一人の新人が以下のように宮崎監督に尋ねている:
「絵を描いてて、急に描けなくなるとか、スランプですね。そうなることが、たまに、学生の頃からあるんですけど。そういう時の、何かいい息抜きの方法とか、教えてもらいたいんですけど。」
これに宮崎監督は以下のように答えた:
「背負ったらね 背負い続けるしかないんですよ。ほんとに。息抜きを意図的にやることによって僕は蘇生することはないですね。その問題と鼻付合わせて寝てても夢見てる。寝床で起きた瞬間にもう考えてる。だからきっと夢うつつの中で考えたに違いない。そういう状態にならないと答えは見つかってこないんですよ。」
ここで思い出されるのがキキとウルスラの会話だろう:
ウルスラ 「魔法も絵も似てるんだね 私もよく描けなくなるよ。」 キキ 「ほんと!? そういう時どうするの? 私 前は何も考えなくても飛べたの。でも今は分からなくなっちゃった」 ウルスラ 「そういう時はジタバタするしかないよ。描いて 描いて 描きまくる!」 キキ 「でも やっぱり飛べなかったら?」 ウルスラ 「描くのをやめる。散歩したり、景色を見たり、昼寝したり、何もしない。そのうちに急に描きたくなるんだよ。」
ジブリの新人の前で「描くのやめる!」とは言わなかったが「描いて 描いて 描きまくる!」の部分はまさに先に引用した宮崎駿監督の言葉に重なるのではないだろうか。
結局、どんな優れた才能に恵まれた人でもどこかのタイミングでその才能との付き合い方を見つけなくてはならない。宮崎監督にもそういう苦悩や葛藤があったことだろう。
「魔女の宅急便は」まだ若く「才能」という貯金しかないもの人々に向けた宮崎監督なりの才能論であり、結果的に激励になっているのではないだろうか。
私自身は大した才能もないので「スランプ」などと言う贅沢品とは無縁の人生を送ることが出来た。誠に悲しいことである。
この記事で使用した画像は「スタジオジブリ作品静止画」の画像です。
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