前回は「サツキの髪をとかすシーンでお母さんが付いた嘘」について考えた。今回はよりサツキにフォーカスして色々と考えいこうと思う。
この作品では「お母さんが入院している」という状況下で、姉妹のサツキとメイ、そしてお父さんの生活が描かれる。重要な点は、サツキもメイも、普段は「母がいない寂しさ」を表に出さないところである。
それでもなお結果的には本編でサツキとメイは大泣きする。どちらが泣くシーンも、多くの人の心の中に何かを植え付けたと思うが、今回はその中でも「サツキがなくシーン」の意味するものを考えていきたい。サツキの涙に我々は何を見たのであろうか?
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「となりのトトロ」の作中でサツキが泣く意味とは?
「サツキが泣くシーン」の誕生秘話
「サツキが泣くシーン」の誕生に関して、鈴木敏夫著「仕事道楽 新版―スタジオジブリの現場 (岩波新書)(PR)」に書かれている。家事やメイの世話を完璧にこなすサツキの姿に違和感を覚えた鈴木敏夫が、宮崎監督にそのことを指摘したときに以下のようなやり取りがあった:
……「こんな子がほんとにいるわけないじゃないですか」。そのとき、ぼくも若かったからですけど、さらにこう言った。「こんなことを子供のうちから全部やってたら、サツキは大きくなった時に不良になりますよ」。
子の時、みやさんは本気で怒りましたねえ。「いや、こういう子はいる。いや、いた」。なにを言うのかと思ったら、「おれがそうだった」。
中略
……お母さんが死ぬんじゃなかと心配してサツキが泣くシーンがあるでしょう、そこのシーンの絵コンテできて「鈴木さん、みて」と言うんです。
「お、ここで泣くんですね」と言ったら、「泣かせた」というんですよ。そして「鈴木さん、これでサツキは不良にならないよね」。ぼくが「なりません」と言うと、宮さんは「よかった」と喜ぶ。
これ以外にも「ジブリの教科書3 となりのトトロ (文春ジブリ文庫)(PR)」に、宮崎監督がインタビューに答える形でこのシーンについて語っている。
以上があのシーンが誕生した流れなのだが、視聴者目線で、あのシーンの効果をもう少し考えてみようと思う。
「キャラクター」としてのサツキが「人間」に戻る
子供の頃の私が、サツキをどのようにとらえていたかと思い出してみると、「家事も難なくこなし、妹の世話までする快活な女の子」であった。しかも、それを意識しないくらい自然に、サツキをそのような「キャラクター」として捉えていた。例えば以下のシーン
自分の家事担当を忘れて寝坊をした父親の横で、手際よく食事の準備をしているシーンである。このシーンをみた私は「このクソ親父が!ちゃんと起きろよ!」とは思ったが、サツキについては「さすがサツキだな~、立派なものだ」くらいにしか考えていなかった。しかし、我々はもう少しサツキのことを慮ってあげなくてはならない。つまりあの朝
「クソを親父、やっぱり起きてねえよ。どうせこんなことだろうと思ってたよ。なんで私がこんなことしなくちゃいけないんだ。お前がやるんだよクソ親父!」
と思っていたに違いないのだ。いや、もしかしたら思わなかったかもしれない。しかしあのような朝が何度もあったことはサツキが普通にしていることから分かる。つまり、こんなふうに思った朝は必ずあったと思う。これ以外にも
「なんで私ばかりがメイの面倒をみなくちゃいけないんだ!おいクソ親父、お前の娘なんだからもっと面倒みろよ!」
と思うことがあったはずなのだ。毎朝メイの髪を結っていたサツキの内面はそんなに単純なものではなかったはずである。しかも、上の2つの不満の先には「お母さんがいれば」という思いが本来は続くのである。
そう考えると、お母さんの帰りを待っているのサツキの内面はもう一段階複雑になる。
もちろん大好きなお母さんに元気になってもらいたいと思っているし、単純にお母さんとの生活を取り戻したいと思ってはいるのだけれど、「母の退院」は「こんなしんどい状況からの脱出」も意味する(どうせ親父は使い物にならないのでお母さんしかない)。
つまり、母の一時帰宅がないことがわかった時「お母さんが死んでしまうかもしれない」という恐怖と、「この日々が永遠に続くかもしれない」という2つの恐怖に襲われることによって、サツキはようやく泣くのである。
そして我々はそこに至ってようやく「そりゃそうだよな。」と、実はサツキがギリギリの状態にあったことに気がつくのである。
そして、「快活で、家事を完ぺきにこなし、メイの面倒まで見る完璧な女の子」という役割を演じる「キャラクター」から、「内面に複雑な思いを抱えながらも、それを表に出さず懸命に生きる」人間としてのサツキにあのシーンでようやく変化するのである(もちろん、サツキの苦しみに気付けなかった私のような間抜けの中で)。
我々はついついアニメーションの登場人物を「ある役割を与えられたキャラクター」として捉えて「人間」とみなさない。だから、快活な人間は内面も快活に思い、前向きな言葉を発する人間はその内面も前向きだと思いこむ。
しかし人間はそんなに単純ではない。思えば「もののけ姫」におけるアシタカのこともひどく誤解していた。自らの村を出る時に、アシタカの内面がドロドロなんて、少なくとも子供の頃は思いもしなかった。
鈴木敏夫プロデューサーが先述したような指摘を宮崎監督にした理由は、映画をぼうっとみている私のような人間に「サツキは人間だよ」ということを伝えるためということになるのだろう。
おまけ:メイの号泣が生んだ福音
ここまでは、「サツキが泣いたシーン」について考えてきたのだが、「となりのトトロ」ではメイも号泣している。私には兄がいるのだが、そのためか「メイが号泣するシーン」は子供の頃には<非情に受け入れ難いものだった。「そこで泣いて姉ちゃん困らせるなよ」と子供心に思っていたのである。
まあ、自分なら泣かない自信があったのかもしれないが、あのシーンで「何泣いてんだよ」と思ってしまったのは私だけではないと思っている。しかし考え方を変えてみよう。
「サツキが泣けたのはメイが泣いてくれたから」
だと。一番最初に述べたように、あの作品ではサツキとメイは基本的に泣かない。ころんだメイも泣かずにいた。サツキもそんなメイが、「お母さんのいない寂しさ」と戦っていることに気がついていたのだろう。
だからこそ自分の中にある寂しさをひた隠しにしてきたのだが、メイの号泣によってサツキはようやく「泣く権利」を得たのではないだろうか。これはサツキに福音である。そう考えると、メイの号泣も「いい仕事をした!」といってあげて良いような気がする。
この記事で使用した画像は「スタジオジブリ作品静止画」の画像です。
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