「平成狸合戦ぽんぽこ」は1994年に公開された高畑勲監督による劇場用アニメーション作品である。
数多くのジブリ作品の中でも今なお一番好きな作品なのだが、今回はそんな「平成狸合戦ぽんぽこ」の主人公正吉の親友ぽん吉にスポットを当てていこうと思う。
物語の最初から登場し、正吉らと共に化け学を学んだのにも関わらず、物語の途中から表舞台から突如姿を消し、ラストで再登場するとその台詞を持って映画を締めていた。
まったく目立たない存在であったのに、見事に良いところを持っていったという事になる。
では、なぜそのような構成にする必要があったのだろうか?
それを理解するために補助線にしたいのが「紅の豚」の主人公ポルコ・ロッソである。ぽん吉という存在を考える時、不思議とポルコ・ロッソの生き様が思い出されてされてしまう。
以下の記事では「平成狸合戦ぽんぽこ」における「ぽん吉」という存在がどのようなものであったのかということを「紅の豚」におけるポルコ・ロッソを振り返りながら考えていこうと思う。
さて、「平成狸合戦ぽんぽこ」におけるぽん吉とはどのような存在だったのだろうか?
「平成狸合戦ぽんぽこ」におけるぽん吉の役割とポルコ・ロッソという生き方
ここから「ぽん吉」という存在の役割を考えていくわけだが、まずはポルコ・ロッソがどういう生き方をしていたのかを思い出してみよう。
ポルコ・ロッソという生き方
「紅の豚」という作品自体、色々な見方があると思うのでそこで「ポルコ・ロッソ」だけを取り出すのは難しいかもしれないのだが、重要なポイントは以下のものだろう:
- ポルコは第一次大戦の英雄である。
- 時代は世界恐慌に陥り、「金、金、金」の時代となっている。
- ポルコには軍に戻る道も有るが、それをせずに「空賊狩り」を行っている。
重要なポイントとなるのは、ポルコ自身が「大戦から経済へ」というある種の手のひら返しを食らっていることであろう。
それまで大事にされていた価値観がひっくり返り、全く別の世界になってしまっている。戦争で死んでいった戦友も敵も、顧みられることのない世界になっている。
「紅の豚」という物語はそんな世界で「いちぬけた!」をした男の物語である(実際にはポルコだけでなく、彼と敵対していた空賊の連中すべてが「いちぬけた組」となっている)。
つまり「カッコイイとは、こういうことさ」とは状況を斜に構えて見て、「これが生きるってことだろ?」と問いかける生き方のことなのだろう。
ただ、そんなポルコが結局はジーナに捕獲されてしまうところに「紅の豚」の良さがあるのだが、それはまた別の話である。
ず~っと状況を俯瞰(ふかん)していたぽん吉
「平成狸合戦ぽんぽこ」におけるぽん吉を振り返ってみると、「紅の豚」におけるポルコ・ロッソのようにあえて多摩のタヌキ達の動向と異なる生き方をしていたようにみえる。
確かにぽん吉は変化の才能がなかったのかもしれないのだが、変化が下手とかできないということではなく、慌てふためきながらもようやく「敵」を見つけて大喜びをしているその「状況」に対して積極的に背を向けていたのではないだろうか?
本編中で正吉が語っていたように、ぽん吉は「タヌキらしく」生きたかったのである。
一方でぽん吉以外のタヌキたちは人間との戦いに熱を上げ、その状況は「妖怪大作戦」で最高潮に達していた。作戦の失敗を受けてタヌキたちは組織として瓦解するのだが、精神的に最も痛手を負ったのが変化できないタヌキたちだった。
最終的に太三朗禿狸が立ち上げた「踊念仏」の信者となり、宝船に乗って集団自決を遂げでしまった。
ところがどっこい、ぽん吉はこの集団自決から逃れていたことが本編のラストで明らかとなる。
なぜそんなことが可能だったのか?
おそらくそれは、ぽん吉は仲間のタヌキたちが人間との戦いという狂乱の中で「タヌキらしさ」を失っていく姿をどこか俯瞰しながら眺めていたからではないだろうか。
その結果「妖怪大作戦」という夢を失っても他の変化でいないタヌキ達のように根本的な絶望を感じずに済んだのである。ぽん吉は「駄目なら駄目で俺達らしくやればいいじゃない?」と絶望と混乱の中にいるタヌキたちを見ていたに違いない。
そしてその姿は、第一次大戦という混乱を乗り越えたのにもかかわらず世界恐慌というあらたな混乱の中にいる世界を斜から見ていたポルコ・ロッソに重なるのである。
裏の主人公としてのぽん吉
このように考えてみると、物語のラストを締めくくったのがぽん吉であった理由らしきものも見えてくるのではないだろうか。
「平成狸合戦ぽんぽこ」は悲しいほどに「敗北の物語」となっているが、大事なことは「敗北したその後」である。この作品は「どっこい生きる」という言葉でその後のあり方について一つの提案を行っている。
この言葉については以前以下の記事にも書いている:
上の記事とは少々ニュアンスが変わってしまうかもしれないが、「ぽん吉」という存在を中心に考えると「どっこい生きる」とは即ち、誰よりもタヌキらしく生きようとしたぽん吉のあり方を指すことになるように思われる。
つまりは、どのような状況にあっても自分らしさを忘れずに「それでも生きる」ということになるだろう。
なんとも陳腐ではあるのだが、「どのような状況にあっても」というところが結局は一番むずかしい。
例えばタヌキたちは、
- 人間との縄張り争いをタヌキ同士の縄張り争いと誤解するところから始まり、
- ようやく人間との争いに打って出るも効果が出ず、
- 四国の長老が用意した究極兵器「妖怪大作戦」までも不発に終わる
という壮絶な「状況」にあった。こんな中ではタヌキらしくもあったものではないと思うのだが、ぽん吉はそれをやってのけた。変化の得意なエリートタヌキたちですら混乱の中にいたのだから、ぽん吉の精神力(鈍感力)は並大抵のものではない。そして「どっこい生きる」ということを体現してみせた。
ぽん吉は「平成狸合戦ぽんぽこ」裏の主人公と言えるのではないだろうか。
正吉とぽん吉
ここまでは裏の主人公ぽん吉について考えてきたが、少しだけ表の主人公正吉についても考えていこう。
ぽん吉の存在において最も重要なことは「状況を俯瞰している」ということだったが、実のところ正吉もそういう性質を持っており、いつだって「これでよいのか?」という疑問を持ち続け「悩める青春」を過ごしていた。
ぽん吉と異なっていたのは正吉は人間との戦いの中心におり、そこから逸脱しようとは思っていなかったことである。
つまり、正吉は対人間戦の中心で状況を俯瞰し、ぽん吉はその外部において状況を俯瞰していたのである。
そしてそんな二人がラストで邂逅を果たすというのはなんともドラマチックである。
あの後正吉はどうしただろうか?
以上がぽん吉とポルコ・ロッソとの関係について個人的に思ったことの全てである。最後は少し正吉の事も書いたが、あえてポルコ・ロッソとの類似性を追うことで「平成狸合戦ぽんぽこ」におけるぽん吉の大切さが見えてきたと思う。
この作品はタヌキたちのてんやわんやの物語であったが、現実の社会を生きる我々も似たようなものである。というよりも、タヌキたちの姿を借りて我々のてんやわんやぶりを描いたと言えるだろう(まさに落語!)。
そして、せっかく「平成狸合戦ぽんぽこ」や「紅の豚」を見たのだから、そんなてんやわんやを俯瞰してみるということを意識することはとても大事なことだろう。自分が当事者であることを忘れなければ。
この記事で使用した画像は「スタジオジブリ作品静止画」の画像です。
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