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機動戦士ガンダム」スペースノイドの怒りと地球連邦政府という奇跡ー物語を支える3つの重要な側面を考察ー

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「機動戦士ガンダム」は1979年に放送された富野由悠季監督によるTVアニメである。

今では数多の続編、派生作品が生まれているばかりか、プラモデルやゲームなど様々な展開を見せており、アニメーションのタイトルというよりは一つの産業名になっている言ってもよいだろう。

今回はそんな産業を生み出した「機動戦士ガンダム(ファーストガンダム)」について、その物語の根幹を支える部分について考えていこうと思う。

ポイントとなるのは「スペースノイドの怒り」「なぜサイド3は開戦に踏み切れたのか」そして「地球連邦という奇跡(大嘘)」となる。

これらのことを順繰り考察していこうと思う。

機動戦士ガンダム世界の考察

スペースノイドの怒りと独立戦争の勃発

「機動戦士ガンダム」はスペースコロニーサイド3がジオン公国を名乗って起こした独立戦争が描かれているのだが、それがフィクションであるが故に「まあ、そんなこともあるか」とすんなり受け入れてしまうのだけれど、もう少しスペースノイドの怒りに思いを馳せることも状況を理解するためには大切なことだと思う。

物理的距離という圧倒的な事実

スペースノイドの思いを考える上では、地球との距離というものを少し深刻に考える必要があるだろう。

我々地球に暮らしている人間としても、例えば、日本の統治をブラジルに暮らしている連中に牛耳られていたら腹も立つだろう

その統治の内容がどうかということもあると思うが、何より遠くから何かを決められるのことに腹が立つ。「気候の違い」という一見くだらないようで人のものの考え方に大きな影響を与えるものも違う。つまり「同じ地球」というだけでその違いばかりが気になって現状に対する不満がどんどん大きくなる。

地球という狭い場所においてもそうなのだから、コロニーに暮らしている人々としてはもっとそういった不満が募るだろう。ジオン公国を名乗ったサイド3宙域は月の更に向こうに位置しているのだから(参考:スペースコロニーの配置と名称(ガンダム入門塾))。

それに加えてコロニーという不安定な場所で暮らしている。遠く離れた母なる大地でふんぞり返っている姿を考えればそもそも「いけ好かない」という思いは長期にわたって醸造されていたと言えるだろう。そもそもコロニーという言われ方がムカつくさ、彼らにとっての故郷なのに

もちろん、地球にいようがコロニーにいようが完璧な状態などないのだから不満は積もる。地球に暮らしている人たちだって地球連邦に対して腹が立つことなどいくらでもあっただろう。しかし、地球は支配者が住む場所でコロニーは下々のものが暮らす場所である。スペースノイドの怒りには逃げ場がなかったのである。

ただ、怒りだけで独立戦争を仕掛ける準備が整うわけはない。サイド3がジオン公国を名乗る気になった理由を考えてみると、スペースコロニー開発の歴史が関係していると思われる。

ものづくりの楽園としてのスペースコロニー

スペースコロニーの歴史を考えるときに、最初期にそこで暮らしを営んでいた人はどう考えてもコロニーの開発に携わった人々である。

そしてもちろん、そんな彼らを相手に商売をする人々が増えて行くわけだが、スペースコロニーの先住民がものづくりに関わる人々であったであることは間違いないだろう。

しかもその人達は「コロニー開発」という人類の英知を結集させなければ成功できないような最先端の開発に携わっていた人々である。

つまり、スペースコロニー(あるいは宇宙)という場所にはその最初期からものづくりの魂(工業魂)が溢れており、基本的な技術レベルは地球を凌駕していたのではないだろうか。

もちろんそこで生まれた技術や知見は当然地球にフィードバックされるのだけれど、発生源は宇宙ということになる。

様々な技術的イノベーションがそこで発生していたのだろう。

ニュータイプ思想と独立戦争へ

このように、宇宙あるいはスペースコロニーという場所は「地球出身の人々から下に見られる(スペースノイドも実のところちょっと地球に憧れている)」、「恐ろしく不安定な場所」という負の側面がありながらも「最先端を牽引する場所」という輝かしい一面も持っている。

この2つの矛盾するような環境(状態)こそがニュータイプ思想(あるいはジオニズム)を生んだのではないだろうか。

つまり「我々は確かに困難な環境、そして政治状況下にあるが、それは我々が地球の人間よりも優れているからだ!」といった具合である。

もちろんジオン・ダイクンがこのように考えてジオニズムを提唱したということではないとは思うが、そのような考えに人々が共感する背景にはこのような思いがあってもおかしくはないだろう(そもそも怒っているのだから)。これはユダヤ教における「試練」と「選民」の思想に類似するかもしれない。

「機動戦士ガンダム」でニュータイプという希望を描きながら、人類全体がニュータイプになるという世界を描けなかった理由はこの辺にあるのかとも思う。

その世界を描いてしまうと、ある種の「選民思想」を完全に肯定してしまうからね。

そして、そのような機運が高まる頃に、人類の技術は「モビルスーツ」を生み出すまでに至ったわけである。「行けるかも!」と思っても無理からぬことだったかもしれない。

しかし、ジオン軍(というかザビ家)も、モビルスーツだけでなんとかなとも思っていなかっのだということが「機動戦士ガンダム」のオープニングにつながるのである。

パズルのような前日譚

さて、皆さん。自分がジオン公国を名乗って地球連邦に対して独立戦争を仕掛けるときにまず何を考えるだろうか?

いろんなことを考えると思うのだが、宇宙から地球を見下ろしたとき隕石的なものを落としたくなるのは必然だと思う。

とはいえ、そういうことは最初に思いついて最後までやらないものだが、ジオン軍は見事にそれを最初にそれをやってのけた。それが「機動戦士ガンダム」のオープニングで地球にコロニーが落下するシーンであり「ブリティッシュ作戦」と呼ばれるものである。

まあ、「独立戦争」に限らず戦争なんてものは可及的速やかに終わらせたほうが良いわけで、一番最初に考えうる最大級の攻撃を仕掛けて相手の戦意を喪失させるというのは合理的とも言える。ただし、連邦が懸命に対応した結果初期目標のジャブローに打撃を与えることは出来なかった。

しかし、ここで問題になるのは「あのとき落ちたコロニーってなんだったの?」ということだろう。

あのコロニーこそが後にシーマ・ガラハウ心を打ち砕いたと分かるサイド2の8バンチコロニーである。

ジオン公国が連邦政府に対して宣戦布告をしたのに、サイド2は連邦側についた。そのコロニー郡の中から標的になったのが8バンチコロニーであり、毒ガスを注入することによって2000万人を虐殺し、地球に落っことしたのである。

この毒ガス注入も、一番最初に考えて最後までやらない作戦の一つだがジオン公国は最初にやったのである。

ただ、これでも問題は残り「ブリティッシュ作戦が思うようにいかなかったのならもう一機コロニー落とせばいいじゃん!」とも思うだろう。

実際ジオン公国はそれを実行しようと考えており、その作戦を察知した連邦との交戦が「ルウム戦役」と呼ばれている。ここでジオン軍は初めてモビルスーツ線を展開し、シャアが赤い彗星と呼ばれるきっかけとなった。

この戦いで連邦軍は大きな損害を受け、レビル将軍を捕虜に取られてしまうが、ジオンも結局コロニー落としを完遂することが出来ず、実のところ大きな損害を被っていた。

つまり、連邦軍とジオン軍はどちらもやばい状態になっており、どちらも「おもてたんと違う!」となっていた。そこで両勢力は南極で会談を設けたわけである。

ただ、連邦にとってはレビル将軍が捕虜になっていることとモビルスーツの恐怖という弱みがあり、ジオン公国としてはそこをついて連邦に降伏を迫ろうと考えていた。

ところがどっこいレビル将軍が奪還され「ジオンに兵なし」というすべてをひっくり返す演説を行った。レビルがいったことはつまり「ビビるな連邦軍!ひるまず戦えば勝てるぞ!あいつら技術力でまやかしを見せているだけの烏合の衆だ!」ということであり、結果的に「南極条約」は戦争のルールを決める条約となり、終わるはずだった戦争は長く続くことになったわけである。

その後連邦はモビルスーツ開発に本腰を入れ「V作戦」としプロジェクトを進める。そして「機動戦士ガンダム」本編つながるのである。

思えば「機動戦士ガンダム」という物語が存立するためには以下の要素が必要である:

  • そこら中ある隕石やコロニーを地球に落とさない、
  • きちんとルールのある戦争をしている、
  • その上である程度落ち着いた状況にある、
  • ただの少年が最新鋭のモビルスーツに乗ることが出来る。

これら視聴者が当然考えそうな疑問の答えがきちんと用意されている。

そこら中にある隕石やコロニーを落とさないのはすでにやって失敗しているからだし、それに基づいて「南極条約」という「正しい戦争」のルールが取り決められ、ルウム戦役の後でジオンも状況を立て直したいと思っていたし、連邦もV作戦のための時間が必要なので小康状態にあった。そして、連邦がモビルスーツの開発に本腰を入れたのが最近だったので主人公の少年は最新鋭の機体に乗ることが出来た。

全く持ってよく出来たパズルである。ただ、富野由悠季をはじめとする当時のスタッフの方々でも合理化出来なかったのが「モビルスーツが直立二本足歩行である」という事実だった。

これはロボットものを作る上での宿命だと思うが、その恨みが「モビルアーマー」や「ジオング」として現れたのだと思う。ただ、それはそれで見事なパズルだと思う。

さて、このように見事な前日譚なのだが、実のところこの前日譚の前日譚には全く説明がないことに気がつく。本当はそれこそが最も重要な事実であり、我々は想像することが出来ない事となっている。

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地球連邦という奇跡(大嘘)

「機動戦士ガンダム」における本質的な前提とは「人類が宇宙に進出していること」であり「スペースコロニーの存在」である。

でさ、あいつらどうやってスペースコロニーを作ったんだ?

私が思うには次のように作ったのだろう:

  • 地球軌道上の宇宙ステーションを少しずつ拡張、
  • 同時に月面に人を送り込んで少しずつ基地化、
  • 宇宙ステーションと月面基地を工場化して小規模コロニー(宇宙ステーション)の部品を製造、
  • 適切な中域に拠点を作り、そこに月面や宇宙ステーションで作った材料を運搬、
  • その拠点近くに小規模コロニー建造、そのコロニーを新たな拠点により大きなコロニーを建造、

そのステップを文字にするとこんなものだが、上に書いたどのステップも地球的規模の大事業となる。すべての人類の叡智と地球資源を結集しなければならないだろう。

少なくとも現在の地球で行われているような国ごとのプロジェクトで実現できるものではない

我々は「地球VS宇宙」という極めてわかりやすい構造の中でなんの疑問もなく「地球連邦」なる存在を受け入れてしまうが、このように考えてみると「地球」連邦という概念がなければ宇宙世紀なんてものは存在できないことが分かる。

でさ、あいつらどうやって地球連邦なんてものを作ったんだ?

これに関しては全くわからない。俺達そんな世界を経験したことがないからね。

いずれにせよ、今を生きる人類が誰も想像も妄想も出来ないような連邦政府がなければ宇宙世紀も「機動戦士ガンダム」もない。そしてこの奇跡(大嘘)の組織こそが「機動戦士ガンダム」最大の妙技といえるかもしれない。

いかつすぎる地球連邦軍

地球連邦の存在が「機動戦士ガンダム」最大のフィクションであるとは思うのだが、それを前提にしても地球連邦軍があまりにも軍として立派な組織になっていることも注目に値すると思う。

つまり、「地球連邦」という統一政府があるのだから「外敵」というのは構造上存在しない。それでもなお軍組織が存在しているとなると、その理由は「治安維持」となるだろう。

ただこの「治安維持」はなかなか曲者であって、結局のところと「治安とはなにか」という重要な問題を引き起こす。

そして「機動戦士ガンダム」の本編以前に発生したと簡単に想像できる「治安維持」としては

  • 宇宙開発よりも自分たちの生活のために金を使えという暴動や運動の鎮圧、
  • 宇宙開発に携わっている人々の不平不満による暴動や運動の鎮圧、
  • コロニー生活をしている人々の不平不満による暴動や運動の鎮圧、
  • 地球連邦の存在そのものに根源的な不満を持っている人々の暴動や運動の鎮圧。

つまり、地球連邦軍は地球連邦政府の意にそぐわないものに対する弾圧をしていたというようにしか考えられない。

もちろん「弾圧」という表現は強烈すぎると思うのだが、そこに感じ取ってほしいのは「宇宙開発の苛烈さ」である。

宇宙世紀を実現するための宇宙開発をすると、すべての叡智と資源を捧げることになるのだから、すでにある生活や産業が「地球での生活が限界に来たから」という理由で無視されることになる。

最初期には宇宙開発も歓迎されたかもしれないが、宇宙開発そのものが順風満帆な理由もないのだから地球の人にも不満はあっただろう。それに伴って宇宙開発に反対する運動も当然あったと考えるのが自然である(しかし政策が変わることはない)。

それは宇宙開発が進んで宇宙で暮らしている人々が増えても同様のことが発生する。

さらに、そもそも論として「地球連邦」なる存在にそもそもの不満を抱いている人々もいただろう。それは地球連邦側から言わせると「分離主義者」ということになるが、一つの政府によって世界中の取り決めがなされることに対して不満を感じるのはむしろ今を生きる我々のほうが理解できると思う。

地球連邦という存在は根源的な部分で「機動戦士ガンダム」を支えているのだが、宇宙世紀0079年に至っても軍備を備えた組織として存立し得た背景を考えると、宇宙世紀という状況の維持には大きな闇の部分があることが分かる。

ジオン独立戦争の勃発は必然であったと言えるのかもしれない。

なぜモビルスーツは脅威だったのか?

上のように地球連邦軍を理解してみると、ルウム戦役において戦場に登場したモビルスーツがなぜ連邦にとって脅威であったのかも少し理解できるかもしれない。

モビルスーツの脅威を「直立二本足歩行ロボットの脅威」と考えると分かりづらいのだが、「国家間の戦争兵器として開発されたロボット」と考えればそれが脅威であったことは当然のことだろう。

つまり、開戦当時の地球連邦軍は国家間の戦争を想定しておらず、その点に関しては大した方法論が存在しなかったと考えるのが当然だろう。

地球連邦政府の思惑と軍部の思惑が一致して、多くの予算を獲得しながら組織を維持・拡大したのだと思うが、(宇宙空間において)本気で自分たちを殺しに来る連中を想定はしていなかった。

もちろん、作業用ロボットを用いた犯罪や暴動はあったかもしれないが、結果論的に言うならば開戦当時の地球連邦の軍備で十分だったということになる。

いずれにせよ、地球連邦軍が統一国家の治安維持が主目的であったことが最初期の不利な状況を生んだと思われるが、直ちに「V作戦」を立案し、ジムの量産にこぎつけたのだから大したものである。

この辺の地球連邦軍のあり方も、新兵器としてのモビルスーツの存在に必然性を与えるものになっており、見事なものだと思う。


以上が個人的に考えた「機動戦士ガンダム」の前日譚として重要と思われることである。

次に考えたいのはいわゆる「原理主義者」ついて。「機動戦士ガンダム」という作品をこよなく愛し、そのために「ガンダム」を関するその他の物語を否定してしまう「原理主義者」存在している

最終的には「無理からぬこと」という結論になるが、その理由を順繰り書いていこうと思う。

『機動戦士ガンダム』原理主義者」はなぜ存在するのか

キチンと終わったものを続けてはならない

「機動戦士ガンダム」の原理主義者が発生する理由はもちろん「機動戦士ガンダムが傑作だから」なのだけれど、より正確に言うと「機動戦士ガンダムがキチンと傑作として終わってくれたから」となるような気がしている。

物語のすべてが素晴らしいのだが、例えば話題をアムロ・レイだけに絞ってみても、次のような素晴らしい流れになっている:

  • 戦乱に巻き込まれ知らぬ間に軍属として戦う羽目になる、
  • しかし、そんな折に再会した母は自分の気持を全く汲んでくれない、
  • 行方不明の父だけが頼りだったが、知らぬ間に父は酸素欠乏症で「アホタレ」になっていた、
  • 両親という「帰る場所」を失ったアムロだったが、ホワイトベースのクルーが家族のような存在となっていく、
  • 最終決戦の地ア・バオア・クーで、アムロは超越的な能力を発見し、ホワイトベースの仲間を避難させる、
  • アムロも崩れ行くア・バオア・クーから脱出に成功、仲間たちに迎えられる、
  • そして戦争が終結する。

アムロがホワイトベースのクルーに迎えられるシーンには胸を打たれるし、43話続いた戦争がようやく終焉を迎える。

一つの作品として見事に完結しているのに、続編、ましてや異次元のガンダムなど必要なのかと考える人がいてもおかしくはないだろう。

「世界にこうあってほしいという願い」VS「世界ってこんなものだよねという諦め」

ここでは「機動戦士ガンダム」に続編が存在してしまっているということがどういうことを意味しているのかを考えて見たい。

「機動戦士ガンダム」のエンディングではなんとか戦争は終結しているし、年齢も立場も違うホワイトベースの人々が孤高の人となってしまったアムロの帰る場所となっている。

こういうエンディングを「綺麗事」とか「青臭い」と言うことも出来るのだけれどそこには確かに願いと希望がある。

ところが「機動戦士ガンダムZガンダム」が存在してしまうということは、結局そういった願いや希望が打ち砕かれ「世界ってこういうものだよね」という話にしかならない。

つまり、

  • やっぱり戦争は続くし、
  • 強化人間のような悲劇は発生するし、
  • 権力は腐敗し、
  • 人はたくさん死んでゆく。

端的に言うと「人間ってくだらないよね」というメッセージしかそこには残らない。特に「Zガンダム」はそうなってしまった。

でだ、そんなことはこの世界で生きている我々自身よくわかってしまっていることであり、めんどくさいやつと思われたくないから日頃口にしていないだけのことである。わざわざフィクションの世界で見せつけられなくも良いのです。

一方で「機動戦士ガンダム」は「人間ってこうだよね」から始まり「人間の未来と可能性」で終わってくれているのである。

初代の「機動戦士ガンダム」とそれ以降の物語では、根本的なところで否応なしにメッセージ性が変わってしまう。そのため、続編のせいで「機動戦士ガンダム」までもその一部となってしまって「未来と可能性」が薄まってしまうのである。

こういった点においても続編などを認めたくないとい気持ちになるの可能性はあると思う。

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「コードギアス」や「シン・エヴァンゲリオン」という個人的な類似

「続編によってその作品がだめになってしまう」という感覚だけなら、個人的には「コードギアス」や「シン・エヴァンゲリオン」に対して存在している。

実際私は「コードギアス反逆のルルーシュ」について、その続編は一切見ていない。上の文章で説明していた「傑作として終わったものを続けると『人間って結局こうだよね』という話にしかならい」という思いが私の中に生まれてしまうことがその原因となっている。

また、「シン・エヴァンゲリオン」についても同じような思いがある。現場では続編はないし、作られることなどないと信じているのだが、もし仮に、天地がひっくり返って続編が作られてしまったら、私は絶対に見ないし文句を言ってしまいそうである。

もちろん、「機動戦士ガンダム」と「コードギアス」「シン・エヴァンゲリオン」を比べるのはおこがましいことなのかもしれないのだが、私の中にも続編や派生作品に対する拒絶反応があるということは事実であり、それが「機動戦士ガンダム」のコアなファンなら尚の事だろう。

それくらい「機動戦士ガンダム」とは優れた、完成された作品なのだと思う。


以上が個人的に考えた「機動戦士ガンダム」の原理主義者が発生してしまう理由である。他にもアニメーション表現や「機動戦士ガンダム」が放送されるまでの歴史など、理由は多岐にわたるのだろう。

私自身は「機動戦士ガンダム」以外の宇宙世紀シリーズもそれ以外のガンダムも好きなのでいわゆる「原理主義者」ではないのだが、だからといって彼らの気持ちを想像すらできないというのもよろしくないだろう。

もちろん「想像」は新たな誤解のもとでもあるので、本来は多くのインタビューを重ねなければならないのだけれど、残念ながらそんな時間も人脈もない。この程度で勘弁してほしい。

皆さんはどう考えるだろうか。

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Sifr(シフル)
北国出身横浜在住の30代独り身。日頃は教育関連の仕事をしていますが、暇な時間を使って好きな映画やアニメーションについての記事を書いています。利用したサービスや家電についても少し書いていますが・・・もう崖っぷちです。孤独で死にそうです。でもまだ生きてます。だからもう少しだけ生きてみます。
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