「機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ジークアクス) Beginning」は2025年1月17日に公開された鶴巻和哉監督による劇場用アニメーション作品である。2025年4月から放送されるTVアニメーションの数話を編集した内容になっている。
私は後悔から1ヶ月ほど経ってからようやく映画を見に行ったが、とても面白かったし、映画としての「読後感」も良く、「嗚呼、全編映画館で見たい」と強く思った。
内容は全く想定していなかったもので「ジークアクス」そのものが「シン・ガンダム」としての立ち位置となっており、「機動戦士ガンダム」の「if」ものとなっていることが分かるものであった。大きな驚きと興奮があり、昨今の「情報統制主義」の正しさを再び確認できるものでもあった。
また、「機動戦士ガンダム」と関係があるという徹は確かに「ジークアクス」面白さの源泉となっているのだが、本編の主人公であるマチュ達の物語が十分に面白いものになりそうで非常に期待が持てるものになっていた。
一方で「機動戦士ガンダム」という「禁忌」を犯してしまったことに怒りを覚えた人もいたようである:
ジークアクス、ラストの戦闘始まったくらいのところで、俺の後ろで勢いよく立ち上がって出ていく人がいて、腹でも痛いのか?と思ってたらマジギレトーンのクソデカ声で「ぶっ殺すぞ!!!」って叫びながら劇場出て行ったやつがいて全部持って行かれたwwwwww
— 林檎亭 (@_ringotei_) January 17, 2025
今回はそんな「Beginning」を見た感想・考察と、それに関連して私が妄想していた「シン・ガンダム」のことについて考えていこうと思う。
「Beginning」はどんな物語だっただろうか。
「機動戦士Gundam GQuuuuuuX Beginning」の感想と考察

やっぱテム・レイすごいじゃん!
「ジークアクス」の世界線では連邦のガンダムをシャア・アズナブルが見事に奪取し、ルンルンダンスで戦果を上げたわけだが、1年戦争終結後もガンダムタイプを生産し続けていたことが分かる。
オリジナルの「機動戦士ガンダム」世界で連邦がガンダムタイプやその派生タイプ(ジムなど)を作り続けた理由としては、そもそも「V作戦」が連邦のプロジェクトであったことが大きいだろう。さらに、それで戦争に勝利している上に、アムロのお陰でガンダムがとんでもない戦果を上げてくれた。
「ジークアクス」の世界でもガンダムはシャア(とシャリア・ブル)のお陰で大きな戦果を上げたと思うが、それでもザクタイプなどのジオンのプロジェクトの方が良いとされればガンダムタイプの生産・開発は終わったことだろう。
しかし、宇宙世紀0085年に至っても「オメガサイコミュ」を搭載した「ガンダムクアッス」なるガンダムタイプが開発されているところを見ると、テム・レイの方法論・方向性が非常に優れていたということになるのだと思う。
残念ながらオリジナルの「機動戦士ガンダム」では酸素欠乏症により「アホタレ」になってしまっていたのだが、「ジークアクス」ではテム・レイの勇姿を見ることが出来るかもしれない。ルンルンダンスでジオンのために開発しているかもしれないが(それならそれで良い!)。
レビル将軍が鍵となる
「Beginning」がオリジナルとどれほど前日譚を共有しているかがまだわからないのだが、概ねそれを共有していると仮定すると、ジオン独立戦争を「一年」戦争にした大きな原因はレビル将軍による「ジオンに兵なし」演説ということになる。
レビル将軍は「ルウム戦役(ジオンによる二度目のコロニー落としを阻止した交戦)」において捕虜になったのだが、奇跡のカムバックを果たして例の演説を行った。最初のコロニー落としとルウム戦役による損害によって弱気になっていた地球連邦を本質的に鼓舞した演説となっている。
結果的に戦争を継続した連邦は勝利したので、レビル将軍は戦争の英雄ということになる。
しかし、「ジークアクス」の世界線ではそうもいかない。
戦犯となってしまった英雄
「ジークアクス」において連邦軍は負けちゃったわけだから、レビル将軍が英雄ということにはどうしてもならない。もちろん地球連邦の人々に対する「戦犯」として断罪されるべき人がいるとすればそれば政治家なのだが、レビル将軍は実質的な戦犯として第一に名前があがるだろう。
「お前がルウム戦役で死んでいればこんなことにはならなかった!」などと、ひどい物言いをされることが容易に想像される。
さて、英雄になるはずだったレビルはその後どのような道をたどるのだろうか。
後に描かれる動乱はレビルが主導する
「ジークアクス」の本編はは宇宙暦0085年に始まっている。つまりは「機動戦士Zガンダム」の時代である。
その時代を思うときに想起されるのは「ティターンズ」あるいは「エウーゴ」だろう。
「ティターンズ」はジオンの残党狩りを理由に生まれたし、「エウーゴ」は連邦の腐敗に反抗して生まれた。
しかし、「ジークアクス」の連邦軍はそんなことを言っていられる状態ではない。かつてのジオンの残党が地球連邦そのものである。そして、連邦の中に打倒ジオンの野心があることも当然のように想定される。
さらに、「ジークアクス」本編の主人公であるマチュたちがず~~~~~~~~~っとクランバトルに興じているなんてことはありえない。マチュ達は間違いなく戦乱に巻き込まれる。
レビルが「ジークアクス」の世界で存命であると仮定すると、おそらくその動乱を主導するのはレビルである。
ジャミトフもバスクも存在しているわけで、ジオンを打倒するために連邦の一部が蜂起するという流れは極めて自然だろう。
戦乱なんて起きないほうがいいに決まっているのだが、もしそれが発生するのならレビルを使わない手はないだろう。
アムロどうなってんの問題:ジークアクスの行く末
「Beginning」を見た人がまず最初に考えたことはもちろんアムロのことだろう。
「ジークアクス」の世界でアムロがガンダムに乗らなかったこと、あるいは、ガンダムがシャアに奪われたことで以下のような現象が発生していると考えられる:
- ガルマはイセリナと仲良くやっており、
- アムロと母は悲しい断絶を経験せず、
- ランバ・ラルはハモンと人生を謳歌し、
- ドムは踏んづけられておらず、
- マチルダはウッディとルンルンダンス。
- 太平洋は血に染まっていないし(ミハルは健在)、
- 天才テム・レイは優秀な父としてそこに居続けており、
- アムロはララアを殺していない。
なんかアムロがガンダムに乗らなかったことで良いことしか起こっていないような気がする。
アムロと母の関係や、父 テム・レイがアホタレになってしまったことはアムロ・レイという少年の成長という観点では重要なことだったので、それがなくなるのは問題な気も一瞬するのだが、アムロという少年の成長は必ずしもあの形である必要はない。
「ジークアクス」の世界でアムロは父親と対立して殴られているかもしれないし、別の形で母という存在を乗り越えるかもしれない。人間的成長が必ずしも戦乱の中である必要はないし、そうでない方がよい。
いずれにせよ、どうやら私達が「機動戦士ガンダム」で食らった多くの悲劇は起こっていないように思われる・
報われなかった者たちを救う物語
さて、上に列挙したような現象は「シャアがガンダムを奪取」あるいは「アムロがガンダムに乗らない」というスタートを設定した時点で何となく想定されるものであるから、「ジークアクス」の制作サイドもどうするかを考えているはずである。
となると、「ジークアクス」はこれまでの宇宙世紀シリーズ、少なくとも「逆襲のシャア」までに発生した悲劇を全部ひっくり返して、報われなかった人々を救う物語にするのではないだろうか。
特に、「機動戦士ガンダム」シリーズで最も報われなかった男 シャア・アズナブルを救う物語になると私は期待している。
どう救うかの作戦は色々あるだろうが、それについての個人的な考えは後に回すことにする。
ドズル戦死の謎
「報われなかったものを救う物語」と考えたときに少々気がかりなことがドズルである。「Beginning」の中で明確に戦死したと言われており、様々な人物の生存が期待される中で彼だけはオリジナルと変わらない状況になっている。
理由があるとすれば「ジークアクス」の中でミネバ・ザビをすくい上げようとしているからという仮説を立てることができる。
つまり、ミネバに焦点を当てると、どうしてもドズルが邪魔になるので「戦争によって親をなくした子ども」という立ち位置で存在させ、彼女が戦乱に利用されるようなことがないようにするのではないだろうか。
まあ「機動戦士ガンダム」の中におけるドズルの死は「報われない」とか「無念」というよりは「壮絶」という方が正しいような気がするので、特段救う必要がないということもあったかもしれない。
ただし、このような事を考えてみるとある人物が全く報われないままに終わってしまいそうな気がしてくるのである。
カムラン・ブルームはきっと
この文脈で私が報われずに終わりそうな気がしてならないのがカムラン・ブルームである。
逆襲のシャアでは大人の男として見事な仕事をしてくれた上で、ブライトに嫌味を言わせるくらいの余裕を見せてくれている。「ミライさん!カムランで良かったじゃん!」と「逆襲のシャア」を見た多くの人々が思ったことだろう(俺は思った)。
となれば、「ジークアクス」の世界ではカムランとミライさんが一緒になっていてもおかしくないような気がするのだが、おそらくそうはなっていない。
なぜなら、ミライさんとブライトが一緒にならないとハサウェイが生まれないから。
「救う」ための方法論として「存在しなかったことにする」というのもありはありだと思うが、それはそれで酷い。存在する人を存在させたうえで救わなければならないだろう。
それを考えるとどうしてもハサウェイには生まれてもらわなけりゃならないわけで、そうなるとどうしてもカムランとミライを一緒にするわけにはいかない。
カムラン・ブルームが少々可愛そうではあるが、「逆襲のシャア」でブライトに一発ぶちかましていると思えないこともないので、すでに報われていると思えば問題ないかもしれない。
アムロは登場するのか?
最後にアムロが「ジークアクス」に登場するのかということを考えなくてはならない。
ここまで「報われなかったものを救う物語」について考えてきたが、実のところ宇宙世紀で最も報われた男こそがアムロ・レイである。
確かに大きな困難に立ち向かうことを余儀なくされたし、ララアという悲劇もあった。しかしながら、アムロ・レイは「モビルスーツのパイロット」という天職を発見し、「逆襲のシャア」に至っては多くの尊敬を集める存在になっている。
ブライト・ノアと並んで宇宙世紀の生きる伝説となっていたのだろう(あいつらとにかく死なねえからな)。
となると、どうしてもアムロ・レイから「モビルスーツのパイロット」という天職を奪うことはできないだろう。それこそ彼が報われなくなってしまう。
さらに、どうしてもシャアを救おうとするならばアムロを退場させるわけにもいかないだろう。アムロを退場させることでシャアを救うのはペテンだよ。何としてもアムロと接触させなきゃならんだろうよ。
まとめると、アムロはパイロットとして登場しなければならないし、シャアと接触する。きっとそうなる。アムロがモビルスーツのパイロットになる切っ掛けとしてレビルが引き起こすであろう動乱が使えるのではないだろうか。

私が妄想していた「シン・ガンダム」としての「シン・逆襲のシャア」

「ジークアクス」は一年戦争の「ifもの」になっているのだが、現代的によく使われる表現としては「シン・ガンダム」といって良いものいなっていると思う。
ただ「ジークアクス」のやり方は私が妄想していた「シン・ガンダム」とはその根本において違うものになっていた。まさか「機動戦士ガンダム」のスタートから物語をひっくり返すとは想定できず、私は「逆襲のシャア」をやり直すのではないかと考えていた。
この記事は「Beginning」に関するものなのだが、上に書いた感想・考察には私が妄想していた「シン・逆襲のシャア」が大きく影響しているので、この機会にその妄想のあらましを書いてみようと思う。
庵野秀明ならシャアを救える
「シン・ガンダム」を妄想するうえで私にとって最も重要な要素となったのはやはり「シン・エヴァンゲリオン」であった。
1997年の夏。「もののけ姫」の劇中では不条理な呪を受けたアシタカがサンに出会って新天地見出していたが、その裏でとんでもなく可哀想なことになっていたのが碇シンジであった。目を背けたくなるような内容と結末であったが、そんなシンジ君を見事に救い出してくれたのが「シン・エヴァンゲリオン」だったと思う。
あの日俺達は強く認識したと思う。「俺達が求めていたのはシンジ君の笑顔だったのだ」と(実際はTV版のエンディングでちゃんと笑顔になってたんだけど)。
そしてそれを思うとき、俺達が見たくて見たくてしょうがないのに決して見ることができなかったものに「シャア・アズナブルの満ち足りた笑顔」があったことが認識される(キシリアを殺すときに満ち足りてたという見方も出来ると思うが)。我々の「機動戦士ガンダム」体験がどうにも消化不良なのはどうしてもシャアのことが気にかかってしまうからだろう。
したがって、もし「シン・ガンダム」があるなら、庵野秀明監督の手でシャアを救い出してほしいと思ったわけ。碇シンジくんのように。
やっぱりハマーンだろう
「シン・ガンダム」でシャアを救い出すとして、その方向性が問題となる。そのために彼の不運としくじりを思い出してみると、
- ジオン・ダイクンの子供として生まれちゃって、
- 生きる意味を復讐に見出したけどガルマを殺した後になって「なんか違う」と気付き、
- ララアという新たな希望を見出したがアムロに奪われた上に殺されてしまって、
- ハマーンと懇ろになるなっていたのに、「よくもミネバをこうも育ててくれた!」とか間抜けなことを言ってしまって、
- シロッコとハマーンを一人で相手する羽目になった上に負けちゃう。
これ以外にも彼の不運やしくじりは多数あるとは思うが、シャアを救い出すチャンスがあるとすればハマーンとの関係をやり直すことしかないと私は思っていた。
「よくもミネバをこうも育ててくれた!」はとても有名な台詞だが、本来シャアがあそこで言わなければならなかったのは
はま~ん、わるかったよ。ひとりでミネバをそだてるのたいへんだったよな~。こんどはさびしいおもいをさせることはしないからさ~。さんにんでくらさない?
これでその後の戦況は大きく変わっただろうし、シャアも家族を持つことができた。何よりミネバ・ザビのその後も安定したものになっただろう。
となると、あの台詞をなかったことにするという手もあるのだが、やっぱりシャアにはシンジ君同様に、一度どん底まで落ちてもらわなくてはならない。したがって、シャアにはシロッコとハマーンをひとりで相手してもらって負けてもらった方が良い。
そのうえで庵野秀明監督にシャアをすくあげてもらおうというのが私の魂胆であった。ただ、しくじりはあの台詞なのだから、歪みを正すならハマーンとうまく行ってもらいたいという願いもあった。
それを実現するために富野由悠季監督がやらかしてくれたことを使えると気がついた。
シャアとララアが結ばれるという流れも良いとは思うが、「機動戦士ガンダム」においてララアはアムロと通じていたわけだから、ララアが結ばれるならアムロのほうが必然性は高いだろう。
新説・機動戦士Zガンダムを利用できる
単純にハマーンとシャアがうまく行ってくれるだけなら「機動戦士Zガンダム」の直後の話を描けばよいのだけれど、先程も述べたようにどん底に落ちたシャアが救われるということが大事なので、ネオ・ジオンの総帥にはなってほしい。つまり「逆襲のシャア」のスタート地点くらいに至ってほしい。
しかし、そうなるとハマーンが死んでいることになってしまう。
そこで、「新説・機動戦士Zガンダム」を利用して「ZZ」の内容が変わっていることにしてしまえばよい。
このようにすると、「新説Z」の存在意義も大きくなるし、逆襲のシャアまでつなげることができるしで一石二鳥である。
後はこの世界線でシャアがハマーンの手を取って駅から出ていけばTHE ENDとなる。
以上が、私が妄想した「シン・ガンダム」の概略である。どうしてもシャアに幸せになってほしいという思いから出た妄想であった。そのため「Beginning」を見たときには、なにか「救い」の物語になってほしいと思ってしまいこの記事の前半にあるような感想を持った。
実際には全く異なる展開になるとは思うのだが、せっかくなので「思い出」という意味も込めて感想文を書いてみた。皆さんは「Beginning」でどのような感想を持っただろうか。

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