雲のむこう、約束の場所
「雲のむこう、約束の場所」は2004年に公開された新海誠監督による劇場用アニメーション作品である。
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「雲のむこう、約束の場所」を始めて見たのはまだ十代の頃だったと思う。友人から「青森を舞台にした作品があるぞ」と言われ「そんな物好きもいるもんかね」と見てみることにしたことを憶えている(青森は私の故郷である)。結果的には青森が舞台というよりは本州最北端が舞台といった感じであったが、今でも好きな作品である。
私以外にもこの作品が好きな人は沢山いると思うが、何が面白いのか言葉にならない人も多いのではないだろうか。私も長年「好きだ」という思いだけがあり、その理由がわからずにいた。しかし、あの作品は「全然ロマンチックじゃない『ローマの休日』なのだ」という思いに至ったので、そのことに付いて書こうと思う。それは同時に究極の「英雄譚」でもあると思うのだが、まずは作品のあらすじを振り返ろう(以下のあらすじは完全なネタバレなのでご注意ください)。
「雲のむこう、約束の場所」のあらすじ(ネタバレあり)
物語の主人公は藤沢浩紀(ふじさわひろき)。まだ中学生であった彼を夢中にさせたものはたった2つ。南北に分断された日本の象徴のように蝦夷に佇む雲のむこうまで届くような白い塔と、同級生の沢渡佐由理(さわたりさゆり)である。
浩紀には唯一無二の親友白川拓也(しらかわたくや)がいた。浩紀と拓也は「飛行機を建造して蝦夷の塔に辿り着こう」という共通の、そして2人だけの夢があった。もちろんそのためにはお金がかかるので、浩紀と拓也は2人でバイトをしつつ、色んな材料を集めながらその夢に向かっていた。
しかしその2人だけの夢を浩紀は佐由理にばらしてしまう(まあ、無理からぬ事である、惚れているのだから)。そこから「白い塔にたどり着く」という夢は3人の夢になりそうだったのだが、沢渡佐由理はパッと姿を消し、2人にとっての夢もそれと同時に「なかったこと」になってしまった。
その後浩紀は東京の高校に進学、拓也は地元の高校に進学しつつ「富沢研究室」の外部研究員として働き、蝦夷の白い塔の研究に携わっていた(すげえ優秀!)。
浩紀も拓也も知らなかったのだが、沢渡佐由理は自分の意志で2人の前から消えたのではなく「原因不明の睡眠状態」にあった。2人の前から姿を消さざるを得なかったのである。その事実を知った浩紀は、再び蝦夷の塔への思いをつのらせ、故郷に残る作りかけの飛行機「ベラシーラ」の完成を目指す。
一方拓也は、自分の所属する研究室(というか研究所)に佐由理が「搬入」されたことを知る。佐由理が眠っているという現象と、蝦夷の白い塔の間には根本的な関係があると思われるため、佐由理は研究所につれてこられたのである、眠ったままで。
佐由理は眠ってはいたが、何も考えていなかったわけではなく、ずっと「夢」を見ていた。その夢の中で佐由理は沢山の不思議な塔(パラレル宇宙の象徴)が林立する世界でさまよっている。そもそも蝦夷に佇む白い塔は「並行宇宙(パラレル宇宙)」の研究のために建てられたものであった。佐由理の脳には何故かその塔が観測した数多の並行宇宙の情報が流れ込んでいたのである。そしてある段階で脳のキャパシティーを超え、佐由理は睡眠状態に陥った。
そんな夢の世界の中でも、佐由理は浩紀のことを忘れることはなかった。彼女にとって浩紀という存在は、現実の世界と自分をつなぐ唯一の「蜘蛛の糸」であったのだ。しかし佐由理は自分の力で現実の世界に戻ることはできない(というよりも、すべての可能性が佐由理にとっての現実になっている)。
最終的に浩紀と拓也は、白い塔の爆破を計画する。それが佐由理を「眠り」から開放すると結論づけたのである。
ちょうどそのころ南北の戦闘が始まった。浩紀と拓也その混乱に乗じてベラシーラを飛ばし、白い塔を爆破する作戦を実行する。浩紀が操縦するベラシーラには、拓也が研究所からなんとか連れ出した佐由理がいた。
浩紀は南北闘争のすきを突いてベラシーラで北の塔に近接する。そこで佐由理は意識を取り戻す。沢山の可能性が佐由理の中に流入していたのだが、ベラシーラが等に近接した段階で、可能性が収束したのだろう。
しかし、夢から目覚めた佐由理はすべてのことを忘れていた。夢の中で浩紀を追い求めていたこと、実は2人で現実を取り戻したこと、その全ては佐由理の中らから消え去っていたのだ。佐由理にとってすべてのことは「夢」となってしまっていた。
それでもなお浩紀は、昏睡状態から佐由理を救えたという事実を噛み締め、北の塔を爆破し蝦夷を離れる。
浩紀は2つの夢同時に失ったかが、それでもなお彼の人生は続くのである。
以上が「雲のむこう、約束の場所」のあらすじである。
「雲のむこう、約束の場所」は結局どういう話だったのか?
あらすじで述べたように、この物語は主人公の浩紀が「白い塔と佐由理」という2つの夢を同時に失う物語となっている。なんとなく喪失の物語として納得してしまうのだが、結局のところ「雲のむこう、約束の場所」はどういう話だったのだろうか。
ローマの休日
今作品を考える補助線として我々が思い出すべき映画に「ローマの休日」がある。ローマの休日とはどういう話だったかというと:
ヨーロッパの王女アン(オードリーヘップバーン)は様々な外遊先を訪れていた。外遊に疲れ果てていたアン王女は、宿舎から脱出する。そこで偶然アンは新聞記者のジョーと出会う。
新聞記者のジョーは「王女の逃避行」を記事にしようとするのだが、そういった打算的な思惑と裏腹に、ジョーは次第にアン惹かれてしまう。そしてそれはアンも同じであった。
しかしそんな特別な日々はいつまでも続かず、2人はお互いの打算のなかでローマでの一時を過ごすが、結局2人は惹かれあってしまう。
惹かれ合う2人だが、ローマでの時間は有限であり、アンは王女としての立場に戻らなくてはならない。いつまでも一緒にはいられないのである。
アンとジョーは翌日の会見で再び会うことになるが、2人はあたかも初めて会ったかのような振る舞いをする。
2人は特別な時間を過ごしたが、その時間は決して言葉にしてはならないものになったのである。
これが「ローマの休日」の概略である。この物語の切なさは、最終的に特別な時間を過ごした2人が、それをなかったことしなくてはならなくなったことにある。少なくとも口外してはならない経験をしたのである。
中々切ない話なのだが、それでもなお忘れてはならないことは、特別な時間が確かにあったことであり、それを2人は忘れないだろうということである。
これは「ラ・ラ・ランド」のラストも同様な意味を持っている。「ラ・ラ・ランド」のラストで見つめ合う2人は「確かにあの日々はあったのだ」ということを思い出しているが、別の人生を歩んでいる二人は決して他人にそのことを語らないのである。なんとも切ない。
ローマの休日のロマンチックじゃないバージョン
「雲のむこう、約束の場所」も基本的には「浩紀と佐由理の恋愛物語」である。そして表面上、浩紀が一方的にヒロイン佐由理を救う話になっているが、佐由理も物語中夢の中で懸命に戦っていたのである。
本来ならば2人はベラシーラの中で「正しく」再会を果たすはずだったのだがそうはならなかった。つまり、2人を隔てつつも繋いでいたギミックが「夢」であった故にラストに至るすべてのことを「佐由理が全部忘れる」という悲劇が発生してしまった。
決して二人が結ばれることがないという点では「ローマ」の休日と変わらないのだが、決定的な差は「片方がすべてを忘れている」という点である。
「ローマの休日」は「王女と新聞記者」とい決定的な立場の差が2人の思いが結実しない理由になっていた。一方「雲のむこう約束の場所」はそんな立場がないにも関わらず、二人は結ばれないのである。結果的に「雲のむこう、約束の場所」は「離別の物語」を大きく超えて「喪失の物語」になっている。
物語の冒頭、大人になった浩紀はたった一人で、そして寂しげな様子で思い出の場所を訪れている。作品を見ていると最初のシーンを忘れてしまうのだが、最も重要なシーンは冒頭の寂しげな浩紀である。
「ローマの休日」にしろ「ラ・ラ・ランド」にしろ「あの時確かに特別な時間があった」ということを2人で確認しているのだが、「雲のむこう、約束の場所」はただ一人浩紀だけがそれを認識している。
この構造には、古来からある恋愛物語の定形の否定や、ある種のニヒリズムが感じられる。
より具体的に言うならば、結局覚えているのは男だけだよなという思いが見て取れるのだ。
何れにせよ、本来なら「ローマの休日」や「ラ・ラ・ランド」になるはずだった物語を、意図的にそうではない物語にしている訳である。しかもそれがばれないように、ラストシーンで始まって、ラスト前で終わるという構造をとっている。つまり、「浩紀が佐由理を救った」というところで終わるので、我々はなんとなくいい話だったような気がするのである。
このように、本来は「ローマの休日」のような物語になるはずだったものを、あえてすかして「喪失の物語」にしたのが「雲のむこう、約束の場所」だったのだろう。
なればこその英雄譚
これまでの話は結局の所、ファーストシーンを「寂しげな男の悲哀」として理解した場合の話であった。しかしあの作品はもう一つ理解の仕方がある。それが究極の英雄譚である。
物語の主人公浩紀は一人の女の子を確かに救ったのである。それを忘れてはいけない。
そもそも北の塔を破壊することは佐由理を救うことになったかもしれないが、佐由理以外の世界を壊すことになる可能性もあった。そういう意味では「天気の子」と同じことをしているとも言える。
この文脈で考えると、浩紀がたった一人で思い出の場所を訪れるシーンは、失ってしまったものを思い出しているのではなく、それでもなお救えることができたものを思い出しに来ていたようにも思える。
もちろん、そんな日々を思い出しに来た理由は浩紀の現状が芳しくないからに決まっているのだけれど、それでも、あるいはそうであるからこそ、自分が成し遂げた何かがそこにあったという思いを掴みに来たように見えるのである。
ヒーローとは孤独であり、孤独であるからヒーローである。そんな仮面ライダーのような英雄像が浩紀に乗っかっていたのかもしれない。
今回色々と「雲のむこう、約束の場所」に関して考えてきたが、やはりどうも捉えどこらがなく、懸命に言語化した上の文章も何やら「はずしてる感」がある。でもそんなところが、この作品の面白さかもしれない。それで良いことにしておこう。面白いことに変わりはないのだから。
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