2021年4月9日、歴史的名作である「進撃の巨人」がその連載を終えた。それは我々にとっての大切なものの終わりであると共に、新しい日々の始まりでもあった。作者の諫山創先生にとっても、長い戦いの終わりであり、新しいなにかの始まりでもあっただろう。
作者の苦しみを知ることもない愚かな消費者である我々に、あんなおもしろい漫画を書き続けてくれた諫山先生には「本当にありがとうございました」の一言しかない。
さて、そんな「進撃の巨人」であるが、物語の完結によって「情念の物語」であったことも明らかになった。
我々を魅了してやまなかった第一話の題名「二千年後の君へ」の「君」は、エレン又は漫画読者の我々のことであろうと多くの人が考えていたと思う(もちろん私も)。しかし、実際にはミカサ・アッカーマンだった。
始祖ユミルは何故、二千年もの間ミカサを待ち続けていたのか。今回は単行本最終巻を読んですぐのフレッシュな気持ちでそのことについて考えていこうと思う。まずは本編で語られたユミルの物語を思い出そう。
始祖ユミルの物語とその謎
始祖ユミルの物語
始祖ユミルの物語が描かれている部分は少ないが、単行本30巻122話「二千年前の君から」に描かれている。
始祖ユミルはエルディアの奴隷だった。舌を切られ、物言わぬ奴隷としての日々を送っていたユミルは、ある日、家畜の豚を逃したという冤罪を着せられる。
集落を追放されるという「自由」を得たユミルだが、エルディアの民に追撃(奴隷狩り)され、ぼろぼろになりながら巨木の根本にある洞穴に逃げ込む。その洞穴の底に溜まった水に落ちたユミルに、不可思議な「存在」が寄生した。その直後、ユミルは巨人に変身を遂げたのだった。
自分を追放したエルディアに、それでもなお巨人の力を持って奉仕したユミルは、その功績をもってエルディア王フリッツの子を身ごもる。ユミルは結局3人の娘、「マリア」「ローゼ」「シーナ」を得たが、フリッツ王を暗殺からかばったことによりその生命を落とす。
しかし、現世に後悔を残したユミルは「道」と呼ばれる狭間の世界で延々と巨人を作り続けるのだった・・・
ユミルの選択の謎
なんとも残酷な話だが、この物語には以下のように不可思議な点が存在している。
- なぜ巨人の力を得たユミルはエルディアに復讐しなかったのか?
- なぜユミルはフリッツ王をかばったのか?
- なぜユミルは巨人を作り続けるのか?
あの物語を普通の感覚で理解しようとすると、最初に巨人の力を手に入れた時点でユミルはエルディア、あるいはフリッツ王に復讐するに違いないのだ。しかしそうはならなかった。
この不可思議な謎を解くたったひとつのキーワードが、単行本最終巻でエレンによって語られた。
甚だ信じがたいことなのだが、ユミルはフリッツ王を「愛していた」のだった。
それだけでも信じがたいことなのだが、いつからフリッツ王を愛していたのかと考えると、さらに信じがたいことになる。
一つの考え方は、自ら望んだわけではなかったが、フリッツ王の子供を身ごもったタイミングである。ここならなんとか常識の範囲内で理解できるのだが、これでは最初に巨人化したときに復讐しなかった理由を説明できない。
つまり、巨人化したときにはすでにユミルはフリッツ王を愛していたということになる。したがって上の3つの謎の答えは、
- エルディアに復讐しなかったのは、王を愛していたから。
- その身を呈して王を守ったのは、王を愛していたから
- 延々と巨人を作るのは、愛する王の願いだから。
ということになる。「おいおいまじかよ」と思ってしまうが、主人公エレンですらその心の奥底までは理解できていないようだった。
ただ、ユミルがその状況を完全に肯定していたかというとそうでもなかった。それは、エレンがユミルにかけた言葉「待っていたんだろ ずっと 二千年前から 誰かを」に涙を流すユミルの姿に表現されている。やはりしんどいのはしんどかったのである。
そして、このシーンを見たときに私が思ったことは「なるほど、ユミルは二千年間にわたって、自分を苦しみから開放してくれる救世主エレンを待っていたのだ」だったのだが、最終話でこの点も否定されてしまった。
ユミルが待っていたのはエレンではなくミカサだった。
この絶妙な「誤差」について何かしら自分なりの答えを出さないと、「進撃の巨人」を終われない。さて、なぜユミルが待っていたのはエレンではなくミカサだったのか?
なぜユミルはミカサを待ったのか?
ユミルの最後の謎を考える前に、ユミルとミカサの共通点を振り返ってみよう。
ユミルとミカサの共通点
ユミルがミカサを二千年まっていたということが明らかにならなければ考えもしなかったが、ユミルとミカサには絶妙な共通点がある。例えば
- 強力な戦闘能力を有している。
- 一方的な執着を相手に持っている。
- そして献身的にその戦闘能力を相手のために提供している。
この辺がすぐに分かる共通点だが、実はもっと共通点あったのではないかと邪推すると、ユミルがミカサを待った理由が見えてくるかもしれない。
邪推の1つは、相手に対する極端な執着を持った理由の部分である。
ミカサにはエレンとの秘密が存在している。それは2人で自分たちを支配するものを殺したという過去であるが、その事実はミカサにとっては福音であり、エレンに対する執着(愛情)を決定的なものにした。
さて、ユミルとミカサの類似がより広く成立するとするならば、ユミルにもこれと同じことが起こったと考えてもそれほどおかしくはないだろう(いや、おかしいのだけれど)。
我々がユミルの気持ちを理解出来ない最大の理由は、我々の中にある「エルディアの奴隷としての生活はこの世の地獄」という前提である。もちろんこの世の地獄に違いない。だって、故郷を焼かれ、舌まで切られるのだから、それがこの世の地獄でなくて一体なんだというのだろうか?
でも、ユミルにとっては違ったかもしれないのだ。ポイントは、ユミルは奴隷になったときに子供だったということだろう。
ある程度の自由を享受する大人にとっての奴隷生活はそれこそこの世の地獄である。しかもエルディアに侵略されて、「自由」を奪われたとなればいよいよ地獄である。しかし、子供という存在は、否応なしに「大人」の支配下にあることを強要される。それは社会の要請でもあるのだが、その支配が極端になると、それは「奴隷」を超える苦痛を子供に与えるかもしれない。
もしかしたら、エルディアの奴隷になる前のユミルの生活は、舌を切られ、冤罪を掛けられ、半笑いで弓を射られる生活よりも更に過酷であったかもしれないのだ。それが子供であることが前提になっていたとすれば、いよいよ文字にしてはならないような状況にいたことになる。
つまり、ミカサにとってのエレンが自らを開放してくれた救世主であるとしたら、ユミルにとってフリッツ王もそうだったかもしれないのだ。たとえそれが奴隷生活であったとしても、舌を切られる奴隷生活よりも過酷な状況にあったとすれば、フリッツ王はユミルにとっての救世主だったのだろう。
「奴隷よりも過酷」なんて、我ながら好き勝手なことを述べていることは分かるのだが、そういう極端なことを考えないと、ユミルの行動原理やミカサを待った理由がわからないのである(もちろん私の問題に過ぎないが)。
そして、ここまで荒唐無稽なことを考えると、ユミルが求めたものがエレンではなくミカサであった理由が僅かに見えてくる。
ユミルが欲しかったもの。
ここまで冗長な文章を書いてきたので、結論から述べようと思うが、私が考える「ユミルがミカサを二千年待った理由」は「恋バナをする女友達を得たかったから」に違いない。
あんな壮大な物語の首謀者の行動原理としてはくだらなくも見えるが、「進撃の巨人」という作品で描かれてきた人間模様を考えると、それほどおかしくもないと思われる。
「進撃の巨人」という作品を、完結した現在から振り返ると「寄り添う物語」であったように思われる。「進撃の巨人」には孤独な人間は一人として存在しない。孤独を気取っていたやつはいたかもしれないが、どんな登場人物にも理解者や理解しようとする者がいた。
物言わぬアニに語りかけ続けたアルミンの存在がその端的な例だろう(いい男だぜ!アルミン!)。
そしてそんな物語の中で、ただ一人孤独に耐え抜いていたのが始祖ユミルである。
そんなユミルのもとに、最初に現れたのが間抜けなジークであった。二千年もの間巨人を作り続けたユミルのもとに、その「機能」しか頭にない男が現れたときのユミルの絶望たるや想像を絶するものがある(なにやってんだジーク)。
しかし、誰よりも自由を追い求めたエレンは、瞬時にユミルが抱える「不自由」が理解できた。ある意味で、エレンはユミルが得ることが出来た最初の男友達だったのかもしれない。しかし、エレンは自分の価値観でしか相手を判断できないので、自分の中にある「自由への渇望」がユミルのなかにあることまでは分かったが、なぜ不自由に生き続けているかということまではわからない。
それを理解してくれるたった一人の存在が、ミカサ・アッカーマンであった。
ミカサだけは
- 自分を救ってくれたものへの執着、
- 振り向いてくれなくても懸命に尽くしてしまう気持ち、
- そして、殺してしまいたいくらいの愛情
そのすべてを理解してくれるはずなのである。ユミルが求めたのは、エレンのように「不自由であること」への理解をするものではなく、それでもなお不自由に生き来てしまう愚かな自分を理解してくれる存在だったに違いない。そしてそれを端的に述べると、「恋バナをできる女友達」になるのではないだろうか。
最終話でユミルとミカサが語るシーンには不可思議なカットがある。それは、槍の一撃に倒れたフリッツ王の傍らで、娘たちを抱きしめるユミルの姿である。
これは第122話で語られた物語と決定的に異なっている。
「歴史的」には、あの場面ではユミルがフリッツ王をかばっている。しかしユミルの回想と思われるカットでは、フリッツ王はやりに倒れているのである。それはどういうことか?
これは多くの解釈が可能であり、1つには定まらない。しかし、「進撃の巨人」を「ユミルの情念の物語」と考えると以下のような考え方もできるだろう:
フリッツ王の暗殺を阻止できなかったユミルは自分を責めた。彼女が責めたのは「フリッツ王を救えなかったこと」ではなく「愛するフリッツ王を自分が殺せなかったこと」である。ユミルがその人生以上のものを捧げ続けたフリッツ王は、結局自分に愛情を注ぐことはなかった。そんなフリッツ王に対して「自分のものにならないなら私の手で・・・」という思いを募らせていたユミルだったが、目の前でフリッツ王の暗殺が実現されてしまった。
一方で、巨人の力を持つユミルは、数多くのフリッツ王の妃の中で決定的な権力を持つことになる。そもそもフリッツ王の存在によってユミルの力は制御されていたのであり、フリッツ王なきあとにユミルに抵抗できるものなどいない。ユミルは絶対権力者になったはず。
それでもなおユミルは愛するフリッツ王の願いのために生き、巨人の力が発現しなかった娘たちには自らの死骸を食らうことを強要し、自らは「道」の中でフリッツ王の願いを叶え続けることを決めた。
そして、ユミルはたった1つの歴史の修正を行う。それは、殺したいほど愛したフリッツ王が他者の手によって命を落としたという事実の隠蔽である。それを実現するために彼女が使った方法は分からない。権力者としての文献の改変だったかもしれないし、巨人が持つ超常の力だったかもしれない。何れにせよユミルは、他者によってフリッツ王が殺されたという事実を、完全に隠蔽した
あまりにも純文学的な流れだが、ここまで来るとユミルにとっての「友達」はミカサ以外にはありえないということも分かってくるだろう。
ユミルにとっての友達の条件は、
- 自分を救ってくれたものへの執着、
- 振り向いてくれなくても懸命に尽くしてしまう気持ち、
- そして、殺してしまいたいくらいの愛情
である。最もハードルが高いのが最後の項目だが、これを超えることができたのはミカサ・アッカーマンだけである。ミカサがエレンの首を取り、口づけを食わすシーンでユミルは作品中唯一の笑顔を見せている。
あの瞬間にユミルは「友達」を得たのである。その後のミカサのユミルに対する発言はドライなものだったが、ユミルが二千年かけてようやく実現した「恋バナ」だった。短い時間だったが、重要な3つのキーワードを共有出来たはず。つまり、「好きだったよね~」、「全然振り向いてくれなかったよね~」「殺したかったよね~」である。
なんともぞっとする話だが、私を含めほとんどすべての男はあまり気にする必要はない。これほどまでに女性に愛されることはないのだから。
「フィクション」であることを前提に好き勝手書いてしまったが、想像のつばさをひろげるとこんなことも考えられてしまうのが「進撃の巨人」の素晴らしさであっただろう。「矛盾するカット」に関しては、単純な過去改変という見方もあるようだが、それよりは上に述べた「情念の物語」のほうが面白いのではないだろうか。
最後の最後まで本当に面白い作品でした。諫山先生、本当にありがとうございました。
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はじめまして。コメント失礼します。
進撃の巨人アニメ完結からもう一度アニメを見返したくなり、その最中やはりユミルの意図についての考察を見たくなりたどり着きました。
なるほど〜と、興味深く見させていただきました。
「恋バナ相手が欲しかった」というのはとてもキャッチーで、年頃の女の子っぽい言い回しで微笑ましい。その通りかもしれないなと思いました。
私は、「殺したかった」という見方ではなく、
「文字通り何をされても愛すしかなかった相手に逆らう(殺す)強い女性像」を求めていたのかな、と思いました。
愛の奴隷になり、愛を求め、その相手を愛す以外の道を知らなかった2人。
心底愛しているが故に逆らえなかったユミルと、心底愛しているが故に逆らうミカサ。
愛するエレンを悪魔にしないため(もうなってますが…)なら、自分の手でエレンを止める。
ミカサがそうすることでユミルは、「ああ、そんな愛もあったんだ」と逆らう(殺す)愛も存在することをミカサに証明して欲しかったのかなと思いました。
生涯女性に限らず誰かにこんなにも愛される人間が一体何人いるんだ…という話になりますが、
いないからこその2000年だったのでしょうか。
なんにせよ、素敵な視点を見ることができてまた新たな考えも生まれそうです。
ありがとうございました。
コメントありがとうございます。
>>素敵な視点を見ることができてまた新たな考えも生まれそうです。
こんなことを言っていただけるとは、記事を書いたかいがありました。