「THE BATMAN-ザ・バットマン-」は2022年に公開されたマット・リーヴス監督による劇場作品である。
近年はやたらとバットマンが登場する映画が多かったが、やはりバットマンとあれば見に行かない訳にも行かないということで公開から数日後に見に行った。
予告編の印象通り全編くら~い雰囲気が漂っていたが、予想したほどの「バイオレンスバットマン」ではなかった。それでもキチンとシリアスさを維持しながら話が進みとてもおもしろかったが、3時間弱という尺はわずかに長くは感じてしまった。
今回はそんな「THE BATMAN-ザ・バットマン-」の感想と個人的な見どころポイントを書こうと思う。
ただ、ネタバレには全く気を使わず書こうと思うので、本編を見る前よりは見た後に「他人の感想を確認する」という目的で読むのがよろしいかと思われる。
「THE BATMAN-ザ・バットマン-」の感想と見どころポイント
リアリティーレベル
バントマンスーツの困難
「バットマン」という作品を実写映像化するにあたって最大の困難は「バットマンスーツそのものの間抜けさ」ではないかと個人的には思っている。
どれほどシリアスで深刻な物語にしようと「おいおい、なんでそんな格好してんだよ」とツッコミを入れたくなってしまう。マントもそうだし、口元だけが空いているマスクもそうだし、何よりもあの可愛らしい耳が問題である(目元の肌の色が見えないようにするための化粧も問題だ)。ただ、「バットマン」を実写映像化するならあれはどうしても避けては通れないものになるだろう。
そうなると、それ以外の部分のリアリティーレベルをどこまで上げられるか、あるいは上げるかが、物語そのもののリアリティーレベルを決定することになる。
画面の暗さ
まずはくだらないところから攻めると、「THE BATMAN-ザ・バットマン-」は最後の最後に至るまで画面が結構暗いのである。
最後まで見るとその暗さの物語上の意味が分かってくるのだが、それ以上に、画面が暗いお陰でバットマンスーツの可愛らしさが軽減されて、全体のリアリティーレベルが上がっているように見える。
ぎりぎりのバットモービル
「バットマン」と言えば登場する武器や乗り物も魅力の1つだが、その代表が「バットモービル」だろう。
私も幼少期にバットモービルのおもちゃを持っていたのであの魅力はよく分かる。しかし、何やら趣向を凝らした乗り物が出てくるたびに「バットマン」のリアリティーレベルはどんどん下がっていって「子供向け」に近づくことになる。
今回も「ケツから火を吹くギミック」は省略されなかったが、歴代のバットモービルの中では相当「ありそう」な部類だっただろう。この辺も今回の作品のリアリティーレベルを上げるための工夫だったのだと思われる。
リドラーという敵
「リアリティー」という問題で更に問題となるのは、「敵役は誰か、どんな存在か」ということになるだろう。
現代は2019年公開の「ジョーカー」以後という立ち位置になるので、少なくともバットマンの前にミスター・フリーズを出すわけにはいかないだろう。
今回の敵役はリドラーであった。
リドラーと言えば「バトマン・フォーエヴァー」の敵役で、当時はジムキャリーが演じていた。「バットマン・フォーエヴァー」におけるリドラーは、内面的にはシリアスな存在だったかもしれないが、外面的には極めて道化師だった。
一方「THE BATMAN-ザ・バットマン-」ではある種の「謎」を提供することに変わりはないが、基本的にはジョーカー的存在であり、この世界の歪みとか機能不全の象徴であった。もちろんバットマンたちに「謎」を提供はするが。
現代的に「映画になりうる敵役」はもはや「ジョーカー的」なものしかなくなっているのかもしれない。
その行動原理が「個人的」なことであったとしても、その「個人的」な問題は広く多くの人々にとって共有可能なものであり、少し間違ったら自分も「あちら側」に行くかもしれないというものでなくては、作品のリアリティーレベルは保てない。
そのように考えると、現代的「バットマン」の敵役は、あのようなリドラー以外にありえなかったと言えるかもしれない。
僅かな夜明け
ここまでは「リアリティーレベル」の話をしてきたが、そんな物語の中にも何かしらの「福音」は必要であろう。そうでなくては「エンタメ」にならない。
今作品の「福音」は「バットマンがバットマンになること」であったと思う。
そもそもバットマンことブルース・ウェインの根本にあるのは両親の死に関する復讐であり、世直しではない。
最後の最後までブルース・ウェインは「復讐鬼」としての「バットマン」でありうるが、「ジョーカー」のように増殖した「リドラー的存在」が、自分と全く同じ行動原理のなかで生きていることを目の当たりにしたブルースは、ようやく自分を相対化することに成功し、自らが「ゴッサムの発煙筒」、「ゴッサムの希望」となることをようやく心に決めることに成功した。
彼にとっては苦難の道程の始まりではあるが、「復讐鬼」としての自分との決別でもあった。
そんな彼は僅かな夜明けの世界をバイクで疾走する。
この僅かな夜明けを見せたくて、あの作品はず~っと暗かったのだろう。
次回作?
この作品は次回作を作れそうな雰囲気で幕を閉じることになる。
ペンギンは生き残ったし、リドラーは最終的に本物の「ジョーカー」と会話をする。
なんとも次回作がありそうな雰囲気ではなるが、個人的にはどちらでも良いと思っている。というか次回作はないほうが良いとすら思っている。
というのも、本作品の最も重要なところは「リアリティーレベル」であり、次回作以降はどうしてもそれを維持できないだろう。それならいっそ、あの終わり方は「それでも何かはくすぶり続ける」という現代そのものを表すメッセージとしておいたほうが良いと個人的には思う。
ただ、「それでも何かはくすぶり続ける」という表現はなんともかっこいいのだが、そんなもの日本では「新世紀エヴァンゲリオン」や「もののけ姫」という作品でとうの昔にやっていることであり、我々にとっては今更感はあるものでもある。
とは言え、次回作があったら大喜びで見に行くのだけれど。
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