「進撃の巨人」は2009年から2021年まで、別冊少年マガジンに連載された諫山創(いさやまはじめ)による漫画作品である。2013年からテレビアニメ化もされている。
以前、「進撃の巨人」の完結を記念して「始祖ユミルは何故、ミカサを二千年待ったのか?」という記事を書いた。
今回は物語の主人公エレン・イェーガーに思いを馳せて、「『進撃の巨人』における最大のフィクションは何だったのか?」ということを考えていこうと思う。
もちろんそれは、「巨人の存在」でも「進撃の巨人のもつ能力」でも「始祖ユミルの信じがたい情念」でもない。それは「エレン・イェーガー最後の作戦」にほかならないと個人的には考えている。一体どういうことだろうか?
- エレン・イェーガーは自らを「世界の敵」とすることで平和をもたらそうとした
「地ならし」を通じて世界の憎悪を一身に引き受け、アルミンを英雄に仕立てることでエルディア人の未来を守ろうとした彼の行動は、献身的かつ英雄的であった。 - 現実世界には「大魔王」も「英雄」も存在しない
社会の不具合を誰かのせいにしたくなるが、根本的原因は存在せず、皆が苦しみの中を生きている。「エレンのような存在」は現実にはいないからこそ、彼は物語の主人公たり得た。
【進撃の巨人】エレン・イェーガー最後の作戦

エレン・イェーガーが最後にとった行動は「地ならし」であった。
それは、誰よりも「自由」を追い求めたエレンの行動としてある意味納得のいくものであったが、主人公の行動としてはなんともショッキングである。
最後の最後まで彼の「真意」を推し量ることはできなかったが、実のところ彼は「自分が世界の憎悪の対象になることによって、世界を1つにする」ということを画策していた。そして、彼の友人アルミンを「英雄」にすることによって、エルディアの民が地ならし後の世界で適切な立ち位置を得られるようになることまで考えていた。
コミックスの最終話を見ると、エレンの行動は一定期間世界に安定を与えてくれたことが分かる。
物語の終盤、何やら不気味な雰囲気を醸し出し、誰にもその真意を語らなかったエレン・イェーガーだったが、最終的にはなんとも献身的で、感動的で、英雄的な行動を取ってくれた。
エレンの思いを知っているからこそ、アルミン達は彼の真実を隠しきったに違いない。
それでもなお我々読者だけは、彼の英雄的行動を忘れないようにしたいものである。
そして、エレンの英雄的行動を忘れない我々としては、彼の取ってくれた行動の現実社会に対する示唆についても、少し考えてみよう。
【進撃の巨人】大魔王不在という社会の苦しみ

我々の住む社会はいつだって何かしらの不具合を抱えている。
そしてその不具合がある水準を超えると、我々は「大魔王探し」を始めるのである。
つまり、この不具合には根本的かつ除去可能な原因があり、それは誰かのせいで発生しているという発想を始めるのである。
しかし、極めて残念なことだが、おそらくそんなものは存在していない。
原因と呼べるものも、それを引き起こしている誰かも。
我々はどうしようもない「流れ」をギリギリで泳いで居るだけで、一見羨ましく見えるあいつらも、溺れそうになりながら泳いでいるのである。政治家や金持ちを一掃しても、我々の状況はおそらく変わらない。
そのような状況で結果的に何が起こるのかというと、すべての人が同時にお互いを攻撃し始めることになる(「進撃の巨人」で描かれたように)。それはまさにこの世の地獄であるし、現代はそのような状況にあるのかもしれない。
「進撃の巨人」最大のフィクションはやはり、エレン・イェーガーの英雄的行動であった。彼は存在しない「大魔王」になることを選び、存在していない「原因」になったのである。
では「原因」不在の我々が実践的にできることは何か?
結局の所「それでもなおなんとか生き抜くこと」しかないのではなかろうか。
我々の誰かがエレンになれれば良いのだが、エレンだって「始祖の巨人」の力を得なければ、あの凶行を実行に移すことはできなかった。ほとんどすべての我々は、エレンように「大魔王」を演じることはできない。
その「歪み」が「ジョーカー」を生むのかもしれないが、絶対に「ジョーカー」にはなりたくない。あれでは世界は変わらないから。
何れにせよ、「現実世界には存在し得ない誰か」であったという点で、エレン・イェーガーはまさに「主人公」だったのではないだろうか。
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