「もののけ姫」は1997年に公開された宮崎駿監督による劇場用アニメーション作品である。
今回は「もののけ姫」におけるサンを取り巻く状況の不思議について考えていこうと思う。
その不思議の主な登場人物はエボシ御前。
「もののけ姫」の本編中、冷酷無比な側面を随所で見せるエボシ御前は、サンにだけは不思議と同情的な態度を見せている(ように見える)。
エボシ御前のサンに対するこの態度の根源は一体何だったのだろうか?
そしてもうひとりの登場人物はモロの君。
普通に「もののけ姫」本編を見る限り何もおかしなところはないのだが、少し考えてみるとモロの君の行動にも何やら矛盾を感じるところがある。
この問題を考えるために、まずはサンに対して同情的なエボシ御前の描写と、モロの君の矛盾を振り返り、最終的にはこのような描写がなされている3つの可能性を考えていこうと思う。
エボシ御前はなぜ、サンに同情的な態度をとり、モロは矛盾する行動をとったのだろうか?
- エボシ御前はサンに対して異様に同情的である
冷徹な判断力を持つエボシが、サンに対しては「もののけ姫も人間に戻ろう」と語るなど余裕を見せる。単なる敵対者以上の特別な感情があることを示唆している。 - モロの君には「人間を憎む」と「サンを育てる」という矛盾がある
人間への憎しみを語るモロが、赤子のサンを育てたのは明らかな矛盾だが、「犬は人類の友」という人間の文化的バイアスや宮崎駿監督の犬への思いがその描写に影響している可能性がある。 - 「サンはエボシの娘説」は両者の矛盾を一挙に説明できる
サンがエボシの娘であると仮定すれば、エボシの同情的態度も、モロの強烈なエボシへの敵意も自然に説明がつく。決定的証拠はないが、状況説明能力に優れた有力な説である。 - サンはエボシ御前の「鏡」であり、エボシ自身の過去を投影している
サンの人間社会への攻撃性や孤独は、かつて人の世に苦しめられたエボシ自身の姿と重なり、エボシはサンに自分自身を見ていた。そのために彼女に同情を抱いたとも考えられる。
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サンに対するエボシ態度とモロの君の矛盾

サンに対して同情的なエボシ御前の描写
まずはエボシ御前のサンに対する同情的な態度を振り返っていこうと思うが、その前にまずエボシ御前の冷酷無比な姿を思い出す必要があるだろう。
「もののけ姫」本編のエボシ御前は、
- 山犬の襲撃で谷底に落ちた男どもに全く同情を見せることはなかったし、
- 物語の終盤地侍に襲われているタタラバにも帰らなかった。
これらの判断に関しては「冷酷」というよりは「致し方ない」というべきところではあるのだが、問題はその判断の速さである。エボシ御前はなんの躊躇もなく上記の判断を下しているのである。
しかしエボシ御前はサンに対して以下のように語る:
古い神がいなくなれば、もののけたちもただのケモノになろう。森に光が入り、山犬共が鎮まれば、ここは豊かな国になる。もののけ姫も人間に戻ろう。
さらに、サンがタタラバを襲撃した際、自らの命を取らんとするサンをニヤリと迎え、アシタカが参戦してもなお話しながら状況に対応していた。
つまり、エボシはサンをやろうと思えばたちどころにやれたのではないだろうか?
それでもなお余裕をかました理由がある。それは一体何だったのか?
もちろん、エボシ御前に「夫を奪われた女達に直接復讐させる」という意図があったことは間違いないことである。つまり、適当に動けなくした上で最後のトドメを刺させるということである。
ただ、以下の文章ではあえてこの点は無視してそれ以外にも意図があったのではないだろうかという形で考えを進めていく。
モロの君の矛盾
「もののけ姫」を普通に見ていてもモロの君にはなんの矛盾も感じなのだが、実は根本的な矛盾を抱えた存在となっている。
つまり、モロの君には「サンを救っておきながら人間を攻撃する」という矛盾が存在している。
モロの言葉によるとサンは、
森を侵した人間が、我が牙を逃れる為に投げてよこした赤子
とのことである。モロの君が人間を恨んでいるのなら赤子といえどもサンをそこで喰い殺せばよかった。しかしそうしなかったという事実がある。
これは明確な矛盾だと思うのだが、ここに矛盾を感じないのは、我々は犬を人類の友と思っているという事実が影響していると思う。
そして何より大事なことは、宮崎監督本人が子供の頃に犬を飼っていたという事実である。そして、「もののけ姫はこうして生まれた」というドキュメンタリーのなかで、山犬が「ハアハア」と舌を出して深く息をするシーンの原画の確認中に、なにやら苦悶している様子が撮影されている。そこで宮崎監督は、
「つい、自分の飼っていた犬を思い出す」
と語り、そのシーンの原画について作画監督の安藤雅彦さんら中心スタッフに意見を求めるのだが、どうもはっきりした返答を得られず
「やっぱりね、子供の頃に一心同体の犬と育たなかった・・・」
などと言ってしまっている。スタッフとしても非常に困ったことだろう。
ただ、犬という存在に対してこのように思っている宮崎監督が、ひたすらに人間を憎むだけの存在としての山犬を描くだろうか?
モロの君の「矛盾」にもきっと理由がある。
ここからは以上の描写を合理化する様々な可能性を考えていこうと思う。
最初に考えるのは巷で有名な「サンはエボシの娘説」である。
サンを思うエボシ御前とモロの君

可能性①:サンはエボシ御前の娘
エボシ御前、そしてモロの君の矛盾に関する違和感を解決する一つの説として「サンはエボシの子供説」が存在している。
決定的な証拠は無いが、この説の最も面白いところは状況説明能力。
つまり、サンがエボシの子供だと考えると・・・
- エボシがサンに同情的であるのは自分の子供だから。
- モロがエボシに対して極端な憎悪を見せるのは、単にタタラバの長であるというだけではなく「自分の娘」であるサンを捨てた張本人だから。
ということになる。特に、モロの君の矛盾を見事に解決しているところがこの説の見事なところである。
心のそこから人間を憎めないモロの君があれほどまでにエボシ御前を憎悪していたのはサンを捨てたからということになる。
もちろんこの説には決定的な証拠はないのだが、例えば以下の画像を見てみよう:

なんともそっくりな顔じゃあないか。だからといって親子ということにはならないが、何かを匂わせているように思っても無理からぬことだろう。
ただ、劇中の描写を見るとエボシ御前がタタラバ、つまりシシ神の森に来たのはナゴの守(アシタカの里を襲ったタタリ神)をシシ神の森から排除した直前と思われる。したがって、
- エボシ御前はかつてシシ神の森近辺で生活しており、そのときにサンをすて、
- その後倭寇の頭領に妻にさせられ、
- ゴンザとともに頭領を殺害して倭寇を脱出、
- その後シシ神の森に戻ってサンと再会
ということになるだろうか。どうしても「エボシ御前がかつてシシ神の森の近くに暮らしていた」という事実を要求するところに無理は感じてしまう。
それでもなお、この説の「状況説明能力」は極めて高いと言わざるをえないだろう。
このように「サンはエボシ御前の娘説」はすべてのことを説明できる優れた説なのだが、これを一般に公言した一番最初の人を私は知らない。もし、知っている人がいたらぜひともコメント欄で教えていただきたい。これに一番最初に気づいたのは誰なのだろうか。その文章を私は引用したいのです。
可能性②:エボシはかつて娘を捨てた
「サンはエボシ御前の娘説」にギリギリの無理があるとして、それを解決する方法が一つある。
つまり、エボシ御前はかつて自らの娘を捨てたことがあるのではなかろうか?
エボシ御前は倭寇の頭領の妻にさせられていた過去がある。そのときに子供を得ていた可能性もあるだろう。
その子供とともに逃げ切ることが出来れば良かっただろうが、それができずに自らの娘を見捨てたのかもしれない。
また、それ以前に子を得ていた可能性もある。その場合、倭寇に連れ去られた際に見捨てざるを得なかったということになるだろう。
結果的にエボシ御前は、捨てられたものを決して見捨てないという決意の中で生きたということになるのではなかろうか。
売られた女達を片っ端からタタラバにつれてきたのも一端だろう。
まあ、この考え方も「決定的な根拠がない」という点では可能性①と同じだし、エボシ御前がシシ神の森の近くに暮らしていたという無理を必要としない代わりにモロの矛盾を全く説明できない。
個人的には悪くない説だが、やはり説明能力としては可能性①に劣るだろう。
可能性③:サンはエボシ本人の鏡だから
ここまで色々考えてきたのだが、何れにせよなにやら欠点があることがわかる。決定的な証拠がないのだからどうしようもないことではあることなのだが、「エボシの娘」といういたかどうかも分からないものを中心にしない観点を模索することも大切だろう。
可能性①と可能性②において、我々が無視してしまっているのは「エボシ御前の内面」である。「もののけ姫」本編でエボシ御前が成し遂げようとしていたことについて個人的に考えたことは以下の記事にまとめている:

本編中にも「国崩し」という単語が登場する。確かにその通りだろうが、あの時代に「国崩し」といえばその地域の状態をひっくり返すということになるだろう。別に日本という国をひっくり返そうという話にはならない。
しかし、おそらくエボシ御前が目指したものは日本(あるいは世界)をひっくり返すことだった。
自分という存在に言葉に出来ないほどの苦しみ、悲しみ、そして屈辱を与えた「今」そのものに彼女は復讐をはたそうとしていたのである。
そんなエボシ御前にサンはどのように写ったのだろうか?
サンの人生を振り返ると、
- 自分可愛さに自らの親に捨てられ、
- その原因の一端を担った山犬に育てられ、
- それでも自分を育ててくれた山犬と森を深く愛して山犬として生きながらも、
- 人間の体をもっている矛盾に気が付き、
- 人間世界への限りない攻撃性をもって、そのアイデンティティを守ろうとした。
ということになるように思える。重要なことはもちろん「人間世界への攻撃性」ということになる。
エボシ御前も「国崩し」を本気で考えている訳だが、彼女が崩そうとしているのは結局のところ「人の世」である。彼女を苦しめたのは神々でも山犬でも猪でもない。
そして、サンはエボシ御前を苦しめていない山犬の側に立ち、自らを苦しめた人の世を攻撃していることになる。
つまり、サンはエボシ御前が虎視眈々と準備を進め実行しようとしてることを今まさに実行しているのである。
そんなサンに対してエボシ御前が同情的な態度を取るのも当然だったのではないだろうか。サンを見ていると自分を見ているようだっただろう。エボシ御前にとってサンは自らを映す鏡だったのである。
このように考えると、結局「モロの矛盾」は説明できないが・・・「犬は人類の友」ということでいいのではないだろうか。
自らを攻撃する人間に対抗するのは当然だし、そこにいる赤子を育てるのも犬の優しさである。だから人類はず~っと犬と一緒に暮らしてきた。せめて俺達が、犬を裏切ることのないように生きることが大切であろう。犬を取り巻く現実は極めて苛烈ではあるけれども。
以上がエボシ御前がサンに同情的であった理由に関して個人的に調べたこと、考えたことのすべてだが、皆さんはどのように考えるだろうか。いつまでたっても新しい発見があるのが「もののけ姫」という物語だと思う

この記事で使用した画像は「スタジオジブリ作品静止画」の画像です。
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