映画 PR

ミッドナイト・ラン】不可思議な男「デューク」を追う!

記事内に商品プロモーションを含む場合があります

映画「ミッドナイト・ラン」は1988年に公開されたマーティンブレスト監督作品である。基本的には、主演ロバート・デ・ニーロ演じるジャック・ウォルシュとチャールズ・グローディン演じるジョナサン・マデューカスが、ニューヨークからロサンゼルスまでを移動するいわゆるロードムービーであり、コメディータッチの作品でもある。

この映画最大の魅力は「たった一晩で終わるはずだった仕事が何日も掛かっちゃう」というドタバタ劇であるのだが、今回はそれとは違う面白さを考えていきたい。そのために、まずは内容を振り返ってみよう。

出演:ロバート・デ・ニーロ, 出演:チャールズ・グローディン, 出演:ヤフェット・コットー, 出演:ジョン・アッシュトン, 出演:デニス・ファリナ, 出演:ジョー・パントリアーノ, Writer:ジョージ・ギャロ, 監督:マーティン・ブレスト
¥407 (2024/11/13 13:16時点 | Amazon調べ)

ミッドナイト・ラン」のあらすじ

主人公のジャック・ウォルシュは元警察官で、現在はBail Bondsman(保釈保証業者(wikipedia))と契約しているいわゆる「賞金稼ぎ」である。

ある日、保証業者のエディから仕事を持ちかけられる。自分が保釈金を貸したジョナサン・マデューカス(デューク)が保釈中に姿を消したので、探し出してほしいという依頼であった。デュークは会計士だったのだが、所属する会社から多額の資金を横領した罪で捕まっていた(横領した資金の多くを寄付していた)。

素早い仕事でデュークをニューヨークで発見し、とっとと飛行機でロサンゼルスまで連れ帰ろうとしたが、「飛行機が怖い」と取り乱し、結局は電車を利用することになる。その後もありとあらゆるアクシデントが発生し、なかなかロスにたどり着けない。

そんな旅の途中、ウォルシュが警官をやめた理由が麻薬王のセラノからの買収を断ったためだったことが明らかになる。組織そのものが腐敗していたシカゴ警察のなかで、麻薬王となあなあになることが警官として生き残るすべだったのだが、正義の男ジャック・ウォルシュにはそれが出来なかったのである。

一方デュークも、自分が会計士として働いていた会社がセラノの表向きの会社であることに気が付き、その良心の呵責から資金を横領したことも明らかになる。

最終的にジャックはFBIと結託し、憎きセラノへの復讐を果たす。その後デュークをロスに連れ帰るが、ジャックはデュークを開放し、二人は別の道を歩んでゆく。


まとめると大体こんな話であり、自分の過去との決別を果たす典型的なロードムービーに見えるのだが、この作品を「コメディー」にしてくれている重要人物がいる。それがデュークである。彼が一体どんな存在なのかを探るのが、ミッドナイト・ランを楽しむ上で極めて重要に思われる。

   

ミッドナイト・ラン」の不思議–デュークという男–

ほとんど誰とも話さない

デュークの持っている最も重要な性質の一つが「ジャック以外の人間とほとんどはなさいこと」である。彼は初め奥さんに匿われており、そこにジャックがやってくるところが彼の初登場である。そこでは僅かに奥さんと話している。その後彼がジャック意外と会話をした場面は以下の通りである:

  • 飛行機の離陸直前に機長に向かって「飛行機はだめなんだ(I can’t fly)。」
  • ジャックが前の家族の住む家を訪ねた時に、ジャックの前妻ゲイルの今の夫との間の息子が「犯罪者に見えない」というと「知能犯なんだ」と答える。
  • ジャックが前の家族を訪ねたしばらく後に立ち寄ったカフェの店員と話す(コーヒーの値段、紅茶の値段を聞き、モーニングセットのチョリソーについて尋ねる)。
  • その後に同じ賞金稼ぎのマーヴィンに拉致されたシーンで、デュークはマーヴィンと「普通に」会話している。
  • マーヴィンと出会った後、なんやかんやとメキシコ系の人々のトラックに拾われ、彼等ときちんとスペイン語で挨拶をする。
  • マーヴィンに二度目に遭遇し、拉致された後に、小さな空港に連れて行かれた後「飛行機が怖い」と弱音をもう一度吐く(その後囚われの身のデュークは何度かマービンと会話する)。

以下の文章でこの会話全ての意味合いを解明しようと思う。デュークという人物を最も端的に表しているシーンがジャックが前妻の家を訪ねるシーンだと思ので、その辺から考え始めてみようと思う。

存在を無視されるデューク

「偶然にも」のったバスがシカゴ経由であったがゆえに昔の家族と合う機会を得たジャックだが、「ただ会いたかったから来た」などと言えないジャックは「金を借りに来た」とうそぶいてゲイルの住む家を訪ねようとする。ジャックがインターホンを鳴らしたシーンで、デュークが僅かにジャックより前に出ているという事実は記憶しておくべきものであると思う。

インターホンを鳴らした後、少年(ゲイルと今の夫との子供)が出迎えた後、ゲイルが現れるが、ジャックの隣りにいて、存在感そのもののようなデュークにゲイルは目もくれない。それでもなお「Hi」くらいのことは言ったのだが、デュークは僅かに会釈を下のみで、言葉は発していない。この後もゲイルの目線がデュークに向くことはほとんどない(でもデュークはジャックとゲイルを注視しているし、ジャックがデュークに関して言及したさいには流石にゲイルの目線はデュークに向く)。

そんな時、ゲイルの息子がデュークに話しかけるが、その直後にデニーズは息子を二階に行かせ、ジャックとの会話を続ける。会話が紛糾し、御破算になりかけた頃に、ジャックが9年間あっていなかった娘デニーズが現れる。やはりデニーズも、デュークに目線を移すことはない。知らないおっさんが手錠をかけられて立っているのに。

このように、デューク以外の登場人物の目線を追う限り、デュークはあたかも存在していないかのようである

娘と会うことができたジャックはその場をさろうとするが、ゲイルが40ドルと車の鍵を渡してくれる。「こんなことして大丈夫か」とジャックは聞くが、ゲイルは「大丈夫だ」と答える。車に乗って家を去ろうとするジャックに娘のデニーズが180ドルを手に持ち現れる。ベビーシッターをして稼いだのだというが、もちろんジャックは受け取らず、娘をハグしてその場をさる。

この最後のシーンで重要なのは、そのカットにデュークは映ってすらいないということである。つまり彼は、一連のシーンで何故か存在していないのと同じなのである。

ジャックを諭すデューク

このようにどうもデュークの存在は「不可思議」なのだが、ここで「ジャックと話した場面」を振り返ろうと思う。以下に列挙したのは「本編半分ちょい後」くらいまでのシーンなのだが、概ね以下のような会話がなされている。

  • 乗った電車の中で、ジャックは稼いだ金で喫茶店を開く話しをするが、デュークはリスクが高いと諭す。
  • 同じ電車内でフライドチキンを食べるジャックに向かって「体に悪いのにたべるのか」と諭す。
  • その食事を終えた後、支払をするジャックに対して「チップが足りない」と諭す。
  • 電車を降りた後、乗り換えたバスの中でタバコをすうジャックに「タバコは毒だ」と諭す。
  • 同じバスのなかで「バスはシカゴ乗り換えだから別れた家族に会いに行けば?」と提案する。
  • 再び同じバスの中で「前の奥さんが再婚したのはついらだろ」と聞くと「なんともない」と返す(その後何度か「つらいだろ」と「なんともない」を繰り返す)。
  • その後、資金も尽きてきた頃に立ち寄ったカフェで「それでもタバコを買うのか」と呆れたように言う。
  • 同じカフェで、デュークが横領をした理由は「正義感とプライド」だったと熱弁する。
  • さらにデュークは「なぜ自分に味方しないのか」と詰め寄るが、ジャックは「邪魔だ」と言うだけでほとんどはぐらかす。

特筆すべきは、バスの中の会話、そしてカフェでの会話である。ふたりは結構な時間会話をしているし、大きな声を出しているのだが、周りの人間は全くふたりに興味がない。というか「映像的に」あたかも何も聞こえていないかのように見える。

この状況はゲイルを訪ねたときと同様である。ここまで話すと私が言いたいことが分かると思うのだが、結局デュークは「実は今なおジャックの心にくすぶっている『正義感』の象徴」であり、ジャックとデュークとの会話は「自分との対話」なのである。おそらく、シカゴで家族と暮らしていたときは

  • 喫茶店を開く夢を押し殺して警官として懸命に生きていたかもしれないし、
  • 健康に気をつけてフライドチキンは食べなかったかもしれないし、
  • チップもきっちり計算するどころか、多めに払っていたかもしれないし、
  • 子供もいたからタバコは控えていたかもしれない

のである。つまりジャックは、現状を肯定しているわけではないが「もうこんな生き方しかできない」という「あきらめ」の中にいる。それでもなお心の奥底には「正しく生きたい」という願いが残っており、それが「公爵(デューク)」として目の前に現れ、偉そうに彼の内面を代弁しているのである。そのように考えるとバスの中での会話以降も合点がいく。

  • 「家族に会いに行けば」という提案は「家族に会いたい」というジャックの内面の真実であり、
  • 前妻の再婚について言い合いになったのは「つらい」という事実を認めたくない内面の葛藤だし、
  • 「金がないのにタバコを買うのか」というのは「金もないのにタバコを買っている自分」への批判であるし、
  • 同じカフェで、デュークの語る「正義とプライド」はジャックの内面の真実であり、
  • 「邪魔だ」といったジャックは本当は味方をしたい

のである。

ゲイルの息子とデュークが会話できた理由

さて、ここまで来ると、ジャックがゲイルを訪ねたシーンの意味合いが少しずつ見えてくる。重要なことは「ゲイルとデニーズにはデュークが見えていないのに、ゲイルの息子には見えてる」ということである。

なぜゲイルとデニーズにデュークが見えないのかと言うと「ジャックが正義の人である」ということを知っているからである。

我々視聴者は、賞金稼ぎをしているジャックが「正義の人」には見えないので、ジャックとデュークが分離して見えるている。しかし、かつてのジャックを知っている二人にはジャックとデュークが一体のものとして見えているのだ。

一方かつてのジャックを知らないゲイルの息子は、我々視聴者と同じように、二人が分離して見えている。だから彼はデュークに平気な顔をして話しかけるのである。それでもなお彼がデュークにかけた言葉は「犯罪者に見えない」である。もちろんそうだろう。正しいことをしたのだから。

閑話休題

まじめに語り過ぎたので、少々おもしろポイントを語ろう。それはジャックがゲイルとデニーズにあった後にたちよったカフェで、コーヒーと紅茶の値段を聞き、モーニングの「チョリソーアンドエッグ」に執着したシーンのことである。

結局あれはどういうシーンかというと、コーヒー(あるいは紅茶)を飲みたいのはジャック本人であり、「チョリソーアンドエッグ」を食べたいのもジャックなのである。あのシーンは「かっこよく」生きたいジャックが「普段隠しているくだらない部分」が出てしまった人間味のあふれるシーンなのである。

飛行機で逃げようとするデューク

さて、物語も架橋に入り、同じ「賞金稼ぎ」であるマーヴィンがデュークを追ってふたりの前に現れる。結局拉致されたジャックとデュークだが、デュークはマーヴィンと普通に会話をしている。今までの流れならデュークはマーヴィンと会話をしないはずなのだが、それが実現しているのには理由がある。

実はマーヴィンが現れたとき、デュークだけを連れ去られないようにするために、ジャックはデュークと手錠で自分をつないでいる。つまり、ここまでの旅(あるいはカフェでの一件で)ジャックは自分の中にいる「あの頃の正義感」を取り戻しつつある。つまりデュークと一体化しつつあるのだ。したがってこの場面では、今までジャックを諭していたデュークはジャックと全く同じ意見を述べている。

そしてマーヴィンに囚われた後、なんやかんやあって逃げ延びたジャックとデュークはメキシコ人の乗るトラックに乗せてもらう。その後、デュークは連れて行かれた場所でセスナで逃げようとする。おぼえていますか?デュークは最初に飛行機でロスまで飛行機で連れて行かれそうになったとき「飛行機はだめだ(I can’t fly)」と言っていたのだ、作品中ジャックは彼を嘘つき呼ばわりするのだが、真実はちがう。

物語の序盤では、デュークが象徴するジャックの「正義感」は死んでいて、翼を失っている。したがって飛べない(I can’t fly)のである。しかし、ここまでの旅を通じて「自らの正義」を取り戻そうとしているジャックは「もしかしたら飛べるかもしれない(I could fly)」と実は思っているのである。それを実行したのがデュークなのである。それでもジャックはデュークを止めてしまう。まだ自分の正義を取り戻しきれていないということなのだ。

その後ジャックとデュークは「最初に嘘を付いたのは君だ」とお互いを罵りあうのだが、これはつまり「俺は自分を偽って生きてきたんだ!」ということをようやく認められるようになったジャックの内面が現れているのである。

来世で会おう!

そしてこの後デュークは「FBIの手帳」を使ってまんまとパブから金を奪い取る。実はこの作品屈指のコミカルシーンなのだが、この一件はデュークの中にジャックのもっている「悪い」部分が流入しているということでもあり、やはりふたりが1つになってきていることを意味している。

そしてこの後、たまたまやってきた貨物列車に乗り込もうとするのだが、ジャックが僅かに乗り遅れる。先に乗り込んだデュークは「俺を逃がすか?」と言いながらジャックに手をのばすが、ジャックはそれに応じない。

そんなジャックにデュークは「来世で会おう(see you next life)」とつげる。これはつまり「この期に及んでそんなことではもう二度と自分を取り戻せないぞ」と言ってるわけである。あの瞬間デュークの手をつかめなかったのは、まだジャックの中に迷いがあるからである。

一度失った正義を取り戻すのは大変なことだ。しかし、まだデュークの手をつかめなかったジャックも、なんやかんや貨物列車に乗り込みデューク(正義や自己肯定の象徴)に追いつくのである。

気になってしょうがない時計

この作品を見ていると、ジャックが自らの腕時計を耳元に近づけるシーンが何度も(オープニングから)存在している。彼がつけている時計はいわゆる自動巻きの時計なので、移動する振動の中でゼンマイが巻き上げられ時計が動いている。つまり、そのゼンマイも巻き上げが上手く行かず「時間が止まってる」状況が続いているというシーンが何度も描かれることになる。

見ている側としては気になってしょうがないのだが、先述した貨物列車に乗った後にようやくその時計の正体が判明する。あの時計はゲイルが結婚前にジャックに贈ってくれもので「いつも時間に遅れるジャックのために『30分時間を早めて』渡してくれた」というエピソード付きの思い出の品である。

これはジャックにとっては「とまった時間」の象徴であり、「過去に対する未練」の象徴である。そして、その話をしている時に「もう寄りはもどせないだろ」というのはやはりデュークである。つまり、そんなことはジャック本人が一番わかっているのである。

静かで、そしてシビれるラスト

デューク奪還作戦

貨物列車から「降りた」あと、なんやかんやあってデュークは再びマーヴィンに囚われしまい、再びジャックは「一人ぼっち」になる。マーヴィンはセスナ機の飛行場にデュークを連れてくるが、そこでデュークは「飛行機恐怖症なんだ(I have very serious fear of flying)」とマーヴィンに述べる(「I can’t fly」ではない)。

デューク(ジャック)はもう飛べるのだけれど「君とは飛びたくない」と言っているのである(結局一発ぶん殴られて「気絶状態」では飛行機で運ばれる)。この後デュークはふつうにマーヴィンと会話するが、それはジャックとデュークがすでに一心同体になっているからであろう。

一方、自分の分身であるデュークを失ったジャックは僅かに自分を見失いそうになったが、FBIと結託してセラノを陥れ、その代わりにデュークを取リ戻す作戦を思いつく(ここもなかなかシビれるシーンである)。

ジャックが立てた作戦は「デュークは不正な取引の電子記録(フロッピー)を持っていて、それを今は自分が持っているから取引しよう」ということである。もちろんフラフであった。FBIとしては「偽のフロッピー」を手渡した瞬間に逮捕、と行きたかったのだが、ジャックはセラノと長話をする。ふたりの最終決戦である。ジャックは頑なにデュークの身柄を要求すし一歩も引かない。それはもちろんFBIの魂胆とは異なるが、彼はここで「自分が失ってしまった正義」をもう一度「本当に」取り戻そうとしている。

結果的に作戦は成功し、ジャックはデュークを取り戻すが、再び手錠をかけロスへ移送する。一見切ない流れだが、これは「ふたりで一緒に飛ぼう!」という結構いいシーンになっている(これは最初の段階で飛行機に乗れなったという事実の反転であり、マーヴィンを拒絶した伏線がここに効いているのである。やはりふたりはもう「飛べる」のである)。

デュークは何故消えたのか

私は個人的に、ジャックが付けていた腕時計は「動きを取り戻す」か「捨てられる」という運命をたどると思っていた。しかし事実は違った。

あの時計は最後の最後にデュークにプレゼントされる。デュークはそのお返しと称して、自分が「身につけていた」逃走資金をジャックにプレゼントする。それは大金であったが、素直にジャックは受け取り、空港を後にしようする。照れくさそうにジャックは振り返るのだが、そこにはもうデュークはいない。

なぜデュークがいないのかと言うと、「もう自分の中に新しい「正義」が生まれており、時計とともに、引きずってきた過去と「さよなら」したから」である。

その後空港をでてタクシーを探すジャック、とうかロバート・デ・ニーロのかっこいいことかっこいいこと。本当に静かで、本当にシビれるシーンなので、ぜひともみていただきたいシーンである

最後の最後でもう一度コミカルに

以上のようにこの作品はジャックの内面の開放の物語であったのだけれども、コメディーでもあった。そしてこの作品はちゃんとコメディーで終わっている。

空港を出たロバート・デ・ニーロは「タクシー運転手」に「10000ドル札しかないが良いか」と言うのだが、からかわれたと思ったタクシードライバーは「お前はコメディアンか」と言い、ジャックを乗せずに去ってしまう。

これはデニーロが「タクシードライバー」と「キングオブコメディー」の主演だったことを知っている人にはくすっとくるところである。さらに、本当は一晩で終わるはずだった簡単な仕事に何日もかけ、結果的に人生を変える旅にまでしてしまったジャックに「何やってんだよ」と軽いツッコミを入れているシーンにもなっている。

ミッドナイト・ラン」のまとめ

長々と書いてしまったが、ここまで書いてきたことをまとめると:

映画「ミッドナイト・ラン」はニューヨークからロスまでの旅の中で、主役のジャックが抱えている内面的な問題が解決されていくロードムービーであり、コミカルなドタバタ劇が最大の魅力である。

しかし、彼と旅をする不可思議な男デュークに着目する事によってこの作品の別の面白さに気づくことができる。デュークという存在は、ジャックの中にある「正義感」や「プライド」そして「正しく有りたいという願い」の象徴であり、デュークとの会話はジャックにとっては「自分との対話」となっている。

そしてそれが見ている側にも分かるように、デュークはジャック意外と殆ど会話をしないし、会話をしているシーンにはきちんと意味が与えられている。

映画「ミッドナイト・ラン」面白さとは、主人公の内面の葛藤を、別の登場人物との会話として表出させていることであり、それが分かるように映画が作られているということである。

実際に映画を見ながら文章を書いたせいか無駄に長くなってしまったが、結局私が言いたいのは「ミッドナイト・ランは面白い」ということである。

いや~、頑張って書いたな!でも「まとめ」ができるならそれだけ書いておけばよかったんじゃないかい?

……そうだな。
 

おまけ:魔女の宅急便

今回は「デューク」という不可思議な存在を中心に「ミッドナイト・ラン」を考えてきたが、この映画における「ジャックとデューク」の関係とものすごく近い存在を描いている作品がある。宮崎駿監督作品「魔女の宅急便」である。

「魔女の宅急便」における「キキとジジ」の関係がおそらくは「ジャックとデューク」と殆ど同じような関係である。「キキがジジと話す」ということは「キキが自分自身の内面と話す」ということに対応している。

このように考えると「ジジが話せなくなった理由」と「ラストでも話さなかった理由」が見えてくると思う。「ミッドナイト・ラン」と同じ文脈で「魔女の宅急便」を見直すと、少しだけ違う側面が見えてくかもしれない。

魔女の宅急便」のラスト、ジジはなぜ喋れないままなのか?「魔女の宅急便」は1989年に公開された宮崎駿監督のアニメーション映画である。内容もさることながら、松任谷由実による挿入歌「ルージュの伝...
出演:ロバート・デ・ニーロ, 出演:チャールズ・グローディン, 出演:ヤフェット・コットー, 出演:ジョン・アッシュトン, 出演:デニス・ファリナ, 出演:ジョー・パントリアーノ, Writer:ジョージ・ギャロ, 監督:マーティン・ブレスト
¥407 (2024/11/13 13:16時点 | Amazon調べ)

この記事を書いた人

最新記事

管理人アバター
Sifr(シフル)
北国出身横浜在住の30代独り身。日頃は教育関連の仕事をしていますが、暇な時間を使って好きな映画やアニメーションについての記事を書いています。利用したサービスや家電についても少し書いていますが・・・もう崖っぷちです。孤独で死にそうです。でもまだ生きてます。だからもう少しだけ生きてみます。
同じカテゴリの記事

COMMENT

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です