「かぐや姫の物語」は2013年に公開された高畑勲監督による劇場用アニメーション作品である。
「竹取物語」を原作としつつも、かぐや姫個人の内面に焦点をあてており、結果的に極めてしんどい物語となっている。その辺の「しんどさ」については以下の記事にまとめている:
そんなしんどい物語の中で、我々の心を掴んでやまなかったのが女童(めのわらわ)。故郷の山から京都に移り住んだかぐや姫の身の回りの世話を献身的にしていたのだが、声を担当した田畑智子さんの名演もあり、極めてコミカルで存在として、しんどい物語の中にある僅かな「救い」となってくれていた。
いつまでもかぐや姫の側を離れることはないような雰囲の女童だったが、物語のラスト、彼女は信じがたいミラクルムーブを見せ、ラストをラストらしくするという恐ろしいまでのいい仕事をした。
今回はそんな女童のミラクルムーブを振り返りなら、なぜ彼女がそんなムーブを見せることが出来たかを考えていこうと思う。彼女はなぜあんなことが出来たのだろうか?
女童がラストに見せたミラクルムーブ
物語のラスト、月からの迎えを撃退するためにかぐや姫の屋敷に多くのサムライが集結。
ず~っとかぐや姫の世話をしていた女童も、姫の隠れる部屋の前で薙刀を抱えてその時を待っていた。
ところが・・・実際に月からの迎えがやってきて、屋敷の人々が超常の力で眠らされている中、かぐや姫を守っているはずの女童の姿が消えていることが確認出来る。
市販のBlu-rayに収められている絵コンテを確認すると「女童、なぜか消えている。薙刀と鉢巻をのこして。」と記されている。
それだけならばただ「逃げた」というだけなのだが、ここから彼女のミラクルムーブが始まる。
女童は屋敷の外にいた子どもたちと戯れながら劇中で何度も歌われた「鳥、虫、獣、草、木、花」から始まる歌を合唱し始める。
その歌を聞いた、かぐや姫、翁、嫗は意識を取り戻し、月の民の前で最後の別れをすることが出来たし、かぐや姫は一世一代の演説を行うことが出来た。
女童は屋敷中の人々が眠りに落ちる中、何故かその力から逃れ、物語のラストを飾ったのである。
さて、問題はここから。
屋敷中の人々が月からの迎えに注目し、結果的に眠らされてしまった中、女童はなぜそんなことが出来たのだろうか?
ここからはその理由を考えて見よう。
女童が消えた理由
「わがまま娘」としてのかぐや姫
「かぐや姫の物語」はかぐや姫の内面が主眼となっているため、基本的に我々はかぐや姫に同情するのだが、他人から見たかぐや姫がどのように写っていたかを考えることも重要なことである。
そして、女童にかぐや姫がどのように見えたかを振り返ってみると、女童が敵前逃亡をした理由も見えてくる。
一挙にまとめてみると、かぐや姫が都に来てから女童が見てきたかぐや姫とは・・・
- 自分を祝ってくれる「名付けの儀式」に後ろ向きで、
- 言付けとしてもらった大量の恋文に興味を持たず、
- 5人の公家を袖にして、
- 人の予定も聞かずに桜を見行こうと言ったと思ったら、
- ちょっと気分が悪くなった途端に帰ると言い出し、
- 石上中納言がなくなった知らせを受けて被害者のように悲しみ、
- 最終的には御門を拒絶したばかりか、
- 自分が帰りたいと願ったくせに、御門の大権によって自分を守らせる人物
であった。もちろんこれらすべてのことに同情すべき(というか現代的にはあたり前の)理由があるのだが、女童も「あの時代」の人物であることを忘れてはならない。
「名付け」を受けることも、それを祝うことも、公家から言い寄られることも、御門の女御になることも、本来的に素晴らしいことで、自分がそのような機会を得たら拒絶することなどありえないのである。
端的に言うと、女童の目にかぐや姫は酷くわがままで自分のことしか考えていない人物に見えていたのではないだろうか。
原作の「竹取物語」の成立は九世紀ごろ言われおり、千年以上もこすられ続けている物語となっている。その中でかぐや姫を「わがまま娘」と捉える見方が、少なくとも現代では存在していると思う。
「かぐや姫の物語」を普通に見ていると、「かぐや姫のことを誰もわかってくれない物語」に見えるので「わがまま」とは思わないのだが、女童の目線というフィルターを通すと、現代の我々がもつ「わがまま娘としてのかぐや姫」が浮き出て見える構造になっていると見ることが出来ると思う。
もう一人のかぐや姫としての女童
このように、女童の目にかぐや姫が「わがまま娘」と見えていたとして、それでもなお「仕事」としてかぐや姫を支えた彼女の日々を思うと、かぐや姫より抑圧されていたようにも見えてくる。
かぐや姫にはあの時代の日本における常識は存在しないし通用しない。しかし女童にとってそれは結構深刻な常識である。
そんな女童は、おそらく自分が享受することの出来ない「幸運」を全部捨て去った人に使えきった。
内心「何でだよ!それはねえだろ!」と思っていたに違いない。
「かぐや姫の物語」は「社会の常識に抑圧され、搾取される女性」を描いた物語となっている(少なくともそのように見ることができる)。かぐや姫の願いは「社会常識の権化としての翁」によって完全に潰されていくのだが、女童にも別の形でそれが発生しているのである。
つまり、女童はかぐや姫が享受できる可能性のあった社会的幸福を得ることがおそらく出来ないのである。
そして、そんなことも「当たり前のこと」として受け入れなくてはならない。なぜなら自分にはかぐや姫ほどの魅力がないから。
自分が享受できない「幸福」を片っ端から捨て去ったかぐや姫に使えた女童は「かぐや姫の物語」におけるもう一人のかぐや姫ということが出来るのではないだろうか。
しかも彼女は「主人公」ではないが故に、誰にも顧みられないのである。
女童が消えた理由
ここまで来ると、女童が最終決戦で消えた理由も見えてくる。つまりはアホらしくなったのである(かぐや姫が「名付けの儀式」から逃げたことの類似)。
彼女の言動によって、世界のすべてが翻弄され、御門までがかぐや姫を守るために全力を尽くすこの世界で、薙刀を持ちと鉢巻を巻いてかぐや姫を守る理由などあるのだろうか?
考えれば考えるほど馬鹿らしい。
そもそも、月からの使いが自分の目の前に来た段階で戦いは終了している。その前にあった防御網を超えているのだから。
これまで「わがまま娘」としてのかぐや姫を支えてきたが、もしかしたら命を落とすかもしれない戦いにまで参加する義理はない。自分のわがままの代償は自分で払ってくれということである。
さて、このように考えると、「女童が消えた理由」ある程度説明していることになっていると思うのだが・・・皆さん、どうだろうか?
かぐや姫の物語」という非常にしんどい物語にある意味の「いやし」を与えてくれた女童がこんな理由で職場放棄しただけということでは悲しすぎる。
ご安心ください、キチンと福音があるのです。
最後の救い「やけくそ気味」という一文
ここで再び絵コンテを見てみる。
物語のラストで女童が子どもたちを引き連れて「鳥、虫、獣、草、木、花」で始まる歌を歌うとこに「やけくそ気味」と説明がなされてる。
はて、「やけくそ気味」とはどういうことだろうか?
私が思うに、
「何やら月から変なのがやってきた。みんなどんどん眠らされるし、自分もどうなるかわからんということで職場放棄してしまったけど、姫を守るために何か出来ることあるんじゃない?ん~~~あ~もうあの歌じゃ!」
ということであろうと思う。
先述したように、かぐや姫の近くにいるときには何か不満を持っていたかもしれないが、一度距離を置くと、自分の職務を思い出すというのが人間ではないだろうか。
女童はあの場所から離れて、もう一度侍女としての職務に帰ったのである。つまり、「かぐや姫の物語」という非常にしんどい物語を支えてくれたあの人に戻ってくれた。
思えばかぐや姫も、自分の意志と願いが有りながら、それと反する翁の言動には従っていた。かぐや姫にとって翁の思いに応えることは「仕事」だったのかもしれない。そういう意味においても、女童とかぐや姫は同じ存在ということが出来るかもしれない。
私としては「かぐや姫」と「女童」が対比の関係にあることによって「かぐや姫の物語」がわかりやすくなると思ったので上の考え方が好きだが、女童が職場放棄していないと見ることも出来る。
「やけくそ気味」は周りの人々が眠りにつく状況を判断し「このままではだめだ!」とやむなくその場を離れ、それでもなお何かをしようと思ったということを表現していると見ることも出来る。ただ、ここまで来ると好みの問題だと思う。
まとめ
以上のことをまとめると、女童のミラクルムーブは以下のように説明できるだろう:「かぐや姫の物語」は一人の人物に対する「抑圧と搾取」の物語であり、その主体はかぐや姫となっている。我々はかぐや姫に感情移入するのだが、その一方で見捨てられている存在の象徴として女童がいる。
かぐや姫本人は「状況に苦しめられている」と思っているが、その側にいる女童の目には「自分が決して得ることが出来ない状況を拒絶するばかりか、他人の都合も気にせず行動する人物」に見ている。
そんなかぐや姫が結果的に御門まで動かして自分を守らせる状況に嫌気がさしたものの、一度屋敷を離れたら自分にも出来ることがあるかもしれないと、子どもたちを引き連れて姫が好きだった歌を歌った。
大事なことは、「かぐや姫の物語」において、当時の感覚を共有していないのはかぐや姫だけだということである。嫗は最後の最後までかぐや姫の思いに寄り添ったが、翁の言っていることがわからないはずがない(だからこそかぐや姫に寄り添い続けたことが胸に来る)。
そして女童も、我々を苛つかせた翁と同じ感覚を持っていたはず。そんな彼女に寄り添うことは、大切なことではないだろうか。
おまけ:犠牲者としての捨丸
この記事では、「かぐや姫の物語」におけるかぐや姫の「わがまま」な側面を見てきたが、その「わがままさ」の一番の犠牲者は捨丸だったかもしれない。
かぐや姫の育った山での子供の中で、年長者だった捨丸は「捨丸ギャング」のボスとして子どもたちを束ねていた。
そんな捨丸は急成長を遂げる「たけのこ」に対して「何処かへ行ってしまう気がする」と告げるが、彼女の返答は「タケノコは、いつまでも捨丸兄ちゃんと一緒だよ。ずっとずっと捨丸兄ちゃんの手下だよ!」だった。
傍から見ていると、捨丸の「婉曲表現」に「たけのこ」が満面の笑みで「誤答」をしたシーンに見える。もちろん、あの時の「たけのこ」は子供だったので、宜なるかなといったところかもしれない。
ただ、それで終わってくれればよかったのだが、「タケノコ」は京に上った後、盗みを働いて逃げようとしている捨丸を発見し、何も考えず声をかけて、結果的に捨丸が「ぼこぼこ」にされる状況を作った。
さらにさらに、自分が月に帰らなくてはならないという運命にあると認識した後、嫗のはからいでふるさとの山に戻った「タケノコ」は捨丸と再会。
捨丸に妻子があるかどうかなんて気にもとめず、捨丸と特別な時間を過ごした。
結果として捨丸は「幻の思い出」として、「タケノコ」とのあの瞬間を胸に秘めながら生きることを余儀なくされたのである。妻子がいるのに。
あそこで再会を果たさなければ、捨丸としてもなんということもない人生を歩んだかもしれない。そして、あの記憶は捨丸を永遠に縛り続けるのだろう。
そういう意味では、捨丸は最大の被害者といえるかもしれない。
「家族捨丸」といってやるなよ。
この記事で使用した画像は「スタジオジブリ作品静止画」の画像です。
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