「機動警察パトレイバー2 the Movie」は1993年8月7日に公開された押井守監督による劇場用アニメーション作品である。この作品は、
- 初期OVAシリーズ(1988年4月25日~1989年6月25日)
- 機動警察パトレイバー the Movie(1989年7月15日)
- TVシリーズ(1989年10月11日~1990年9月26日)
- NEW OVAシリーズ(1990年11月22日~1992年4月23日)
に続く「パトレイバーシリーズ」であり、このあとに「WXIII 機動警察パトレイバー(2002年3月30日)」があるものの、公開時期が離れていることもあって、多くの人が「機動警察パトレイバー2 the Movie」をアニメ版「機動警察パトレイバーシリーズ」のとりあえずの完結編として捉えていたのではないだろうか。
その映像美や物語のリアリティーが秀逸であり、アニメ、実写を問わずこれ以降に作られた多くの作品に影響を与えている。
そして、この作品ほど見事にクーデターを描ききった作品はない(異論は認める!)。
今回はそんな「機動警察パトレイバー2 the Movie」で描かれたクーデターの黒幕 柘植行人(つげゆきひと)の犯行動機について考えていこうと思う。
いやいや、彼の犯行動機は「平和ボケした日本人に一発食らわすことだろ」という人もいるかもしれない。でも、そんな人でもなにか妙な違和感があるだろ?
彼の動機は絶対そんな高尚なものではないのだよ。
ということで、今回は「機動警察パトレイバー2 the Movie」の黒幕である柘植行人の犯行動機について考えていこうと思う。
まずは作品のあらすじを振り返ろう。
ただ、あらすじと言っても全部話してしまうので、ネタバレが嫌な人は途中まで読んで本編を見てください。
「機動警察パトレイバー2 the Movie」のあらすじ(ネタバレあり)
ベイブリッジ爆破
2002年の冬。方舟事件から3年がたち、山崎を除く第二小隊の隊員は新天地で新たな活動に従事していた。
そんなある日、埋立地に帰投中の南雲しのぶの眼前で「ベイブリッジ爆破事件」が発生する。それは当初、ベイブリッジに違法駐車された車に仕掛けれた爆弾によるものと思われた。
しかし、報道機関が入手した映像から、それは自衛隊機による「爆撃」であった可能性が示唆され始める。もちろん自衛隊はそれを否定した。
そんな時、特車二課に陸幕調査部別室の「荒川」と名乗る男が現れ、後藤と南雲に接見する。
彼は2人に映像資料を見せる事によって「ベイブリッジ爆破事件」は実のところ米軍機によるものであったことを説明する。しかも「独自の筋」から得た情報として、三宅島での夜間発着訓練中に疾走した機体があったことを米軍が認めたことも明らかになる。
荒川によると、この事件の裏には現状の日本に不満を持つ日米の組織が存在しており、本来的には空爆に見せかけた物語を演出することが彼らの目的であった。しかし、それを利用して本当の爆撃を実現した人物がいた。
その名は柘植行人(つげゆきひと)。荒川が内定を進めていた創立以来のメンバーであった。
この映画の一番むずかしいところが実のところこの「ベイブリッジ爆撃」である。
荒川の言葉をヒントに本来はどういう作戦だったかということを考えると、通報通り違法駐車の車が爆発し、その上空に米軍機が確認されることによって「爆撃」の可能性が喚起され、「平和ボケ」した日本人共に一石を投じるといった具合のことだったのだろうと思われる。
ただ、大事なことはベイブリッジの空を飛んでいた米軍機が行方不明なっていることである。
そんなことあるだろうか?
「ミグ25事件」のように何処かに亡命したのか?それなら大々的な報道がなされるべきだがそうなってはいないし、パイロットが瞬時にそんなことを思いつくとは思えない。
では、米軍機とパイロットはどこへ消えたのか?
このことに関してはこの記事の最後の「おまけ」として書いている。
幻(まぼろし)の危機
謎の男 荒川が後藤と南雲に柘植の捜査協力をしていたその時、再び事件が発生する。事件のあらましは以下のとおり:
- 爆装した3機のF16が三沢基地を離陸し東京に南下したことが府中防空指令所で確認される。
- 三沢基地との連絡は途絶。
- すぐさま百里基地と小松基地から要撃機が発進。
- バッジシステム(航空自衛隊の防空指揮管制システム)上には存在しているはずのF16の確認できぬままに要撃機が撃墜される。
- 最悪の状況を避けるため基地防空司令はF16の撃墜命令を出す。
- その直後、システム上からF16の姿が消える。
- すべてはバッジシステムのハッキングによる「茶番劇」であることが判明する。
この事件をきっかけに、後藤は荒川となし崩し的な協力体制に入る事になった。南雲の許可を得ることなく。
籠城
幻のスクランブル事件を受け、三沢基地の航空部隊に飛行禁止命令が出される。
全く身に覚えのないことで「罰」を受けることになった三沢基地の司令は、抗議のために東京へ向かおうことを決断するが、基地のゲート前で警察に拘束されてしまう。
飛行禁止命令ですらある種の冤罪である上に、基地司令が特段の理由もなく拘束されたことで、三沢基地は事態に対する抗議のため外部との連絡を遮断し籠城を開始する。
それに呼応するように練馬駐屯地も籠城を開始、特車二課を含む警視庁警備部の部隊が「不測の事態」に備えて出動することになった。
事態は警察と自衛隊のパワーバランスを争う対立に変化していた。
そのような緊張状態のなかで、状況の沈静化を図ろうとした政府は「陸上自衛隊内の信頼のおける部隊」に出動を要請する。それはまさに「治安出動」であった。
陸上自衛隊が都内で展開しつつも、そこには変わらぬ日常続く。
東京には雪が降り始めていた。
再会
事態が混迷を極める中、実家に還った南雲の下に柘植からの連絡が入る。
南雲はかつて「柘植学校」と称されたレイバーの軍事運用に関する研究組織に警察官として出向しており、そこで妻子のあった柘植と不倫関係にあった。その事実は警察内で知れ渡ることになり、栄光ある人生を歩むはずだった南雲は「特車二課」という僻地送りにされていたのだった。
結局南雲は柘植からの呼び出しに応じる。それは警察官としての判断だったかもしれないが、精算されていない自らの思いゆえだったかもしれない。
柘植と再会を果たす南雲。
しかしそこに後藤と荒川が現れる。南雲を心配した母親が、後藤連絡をいれていたのである。
逃走する柘植と南雲は、ただひと目会うことが赦されるのみであった。
そのよく朝、再び状況が動きだす。
東京湾の埋立地に運びこまれたコンテナから、3機の戦闘ヘリが飛び立つ。そのヘリはレイバーを有する「特車二課」、警視庁本部といった拠点を攻撃、都内の実質的な「反撃能力」と「情報発信能力」を瞬時に奪った。
統率能力を失った警察情報部と袂を分かつことになった南雲と後藤は、独自に状況の収拾に動き出す。
第二小隊再び
ベイブリッジ爆破に始まり、様々な混乱が発生するなか、全く政治的要求が公にならないことを鑑みるに、一連の事件はその「混乱」そのものが目的であると後藤らは結論づける。
したがって、主謀者である柘植を逮捕する以外に手はない。
現在の特車二課が壊滅した状況下、後藤は旧第二小隊の面々に招集をかける。断るものなど誰もいなかった。
旧第二小隊が終結するなか、後藤は荒川から柘植の本拠地の情報を得る。それは米軍から提供された情報であり、明朝7時以降に上に変化がなければ米軍が介入するという通告がったことも告げられる。
南雲しのぶと旧第二小隊の面々は作戦を立案。実行に移す。
現場に向かう南雲らを荒川と後藤が見送る。何故か後藤はいかなかった。
結果的に、荒川は事件を首謀した一員として逮捕された。その根拠は「自らに与えられた情報があまりにも正確で迅速だった」こと、そして、南雲と会おうとした柘植に対する銃撃を抑制したこと。
後藤の見立てでは、自らが主謀者の一員であることが露呈することを恐れ自分のような人間に協力を要請した。
荒川はそれを否定せず、ただ逮捕された。
終わりはいつでも静かなもので
旧第二小隊の尽力もあり、南雲は柘植の下にたどり着くことができた。
再開する柘植と南雲。2人は互いをためすように冷静だった。
警察官として柘植を逮捕する南雲。それでもなお手に手を取りあう柘植と南雲。
連行される柘植が刑事に問われる。「これだけの事件を起こしながら、なぜ自決しなかった」と。
柘植はこたえる「もう少し見ていたかったのかもしれんな、この街の未来を」。
以上が個人的にまとめた「機動警察パトレイバー2 the Movie」のあらすじである。ここからは何やらぼんやりしている「柘植行人の犯行動機」について考えていこう。
「機動警察パトレイバー2 the Movie」の考察–柘植行人の犯行動機–
逆恨みでしかない柘植行人の怒りと絶望
柘植の犯行の根本的なきっかけとなっているのは、PKO部隊として派遣された自らのレイバー小隊が壊滅したことである。
映画のスタートと共に描かれるあの惨劇は日本人である我々にとっては極めて受け入れやすい悲劇であるとともに、何かしらの「苛立ち」を覚えてしまうものでもある。
そして、小隊長である柘植に同情する。
この「同情」によって、基本的にはただただ迷惑でしかないクーデターを我々はある程度中立的に見ることができるようになっている。中には酷く同調的になる人もいるだろう。
しかしだ、よくよく考えてみると、柘植の小隊が壊滅したのはどう考えても柘植本人のせいである。
「発砲許可を出さなかった上層部が悪い!」と言いたくなるかもしれないが、眼の前で部下が今にも死にそうになっていて、それを柘植もよく分かっているのだから、発砲許可があろうとなかろうが、許可がおりたことにして部下に発砲させればよかったのである。
何故そんな簡単なことができなかったのか。
理由は簡単で、柘植行人は部下の発砲の責任を取るような器のでかい人物ではなかったからということになるだろう。
そりゃあ大問題になるだろうよ。柘植の小隊がばんばん発砲した挙げ句に勝利を収めてしまったら。
その場合、柘植は国際的な英雄でありながら国内的には海外で軍事行動を行った極悪人として断罪されることになる。
私のようなくだらない小市民としては確かに身の毛もよだつ話であり、私なら絶対に部下に発砲許可など出せない(自分で言ってて悲しくなるが、俺なんてそんなもんなんです)。
しかし、最後の最後まで何やら上から目線で偉そうな雰囲気を出しまくっていた柘植も、どうしようもなく普通な人だったということになる。彼は彼が思うほど立派な人間ではなかった。
それならそんな不甲斐ない自分を攻めれば良いものを、その怒りと絶望は日本という国、あるいは日本というあり方そのものに向いたことになる。
我が国ではそういうのを「逆恨み」という。
では「機動警察パトレイバー2 the Movie」は逆恨みの物語であり、柘植の犯行動機は「逆恨み」ということでいいのだろうか?
もちろんそんな訳ない。
ここで明らかにしたかったのは、柘植は実のところ大した人物ではないということである。
しかし、都内でのクーデターを首謀するというのはくだらない人間のできることとは思えない。
この矛盾はどこから来るのだろうか?
帰国後の柘植がなすべきだったこと
柘植が大したことない人物だったとして、我々が想像すべきなのはPKO派遣から帰ってきた柘植の行動だろう。
映画本編を見るに、彼は鬱屈した思いを抱えながらず~っと人目をはばかって生きていたらしい。
しかし、映画のラストを見るに、本来柘植がなすべきだったことは以下のような内容の電話をすぐさま南雲しのぶにかけることだったと思う:
しのぶ~、だめだったよ、俺の部下みんな死んじゃったよ。
レイバー戦のことなら誰よりも分かってるつもりだったけど、実戦は厳しかったよ。ていうかめっちゃ怖かったよ。
結局なんにもできなくってさ。
俺のせいで色々苦労させたけどさ、なんとか会えない?
俺、しのぶに会いたいんだよ~。やっぱり君がいなきゃだめなんだよ~。
なんとも情けない電話ではあるが、南雲しのぶならなんやかんや会ってくれたことと思う。南雲の弁によれば、柘植は帰国後に一通の手紙を書いてよこしたらしいが、それが本当かどうかはわからないし、少なくとも上のような内容ではなかっただろう。
いずれにせよ、柘植は上のような「正しい連絡」をすべきだったし、それを前提に南雲が正しく青春を終わらせるか、やっぱりズルズルいくのかは彼女が勝手にきめれば良いことである。そしていずれの場合も、おそらくあの「幻のクーデター」は発生しなかっただろう。
柘植の中にある鬱屈した思いはそれで発散されるのだから。
ところがあのバカ(柘植)はそれをしなかった。そしてできなかった。
なぜそれができなかったのか?
それは彼の肥大したプライドがそれを赦さなかったから。それしかないだろう。
柘植が南雲と出会った時、そこには明確な「上下」があった。柘植は教える側であり、南雲は学ぶ側だった。
未来を約束された俊英南雲しのぶが自らになびいたときに柘植はどれほど心が踊ったことだろう。少なくとも家族のことなんか忘れるくらいには踊っちゃった。
なんとも小市民じゃないか。それまで想像もしなかった「浮気」がむこうから転がってきたもんだから見事に転んじゃった。まあ無理もないさ。南雲しのぶから好意を寄せられて黙っていられる男などいるのだろうか。
いずれにせよ、柘植にとって南雲が極めて特別な存在であったことは明白で、帰国した柘植が南雲に会おうとしなかったことは極めて不自然であった。
色々と理由を勘ぐることはできるが、結局のところ情けない自分を見せることができなかったということになるだろう。
それで延々と引きこもってくれたらそれで良かったのだが、極めて迷惑なことにあのアホは寝ていてくれなかった。
結局、本当に、南雲しのぶに会いたかっただけ
ここまで考えてきたように、部隊の全滅はそもそも器の小さい自分自身の責任であり、そんな情けない自分を認めて南雲しのぶに会いに行けばいいものの、それすらできない間抜けが柘植行人である。
となると、あの間抜けの犯行動機とは何だったのか?
それは、もう一度人の上に立つ状況を作り「俺すごいだろ!」という思いを持ちながら南雲に再会を果たすためだったとしか私には思えない。
そのために東京都内でのクーデターごっこしたのだからただただ迷惑な話である。
もちろん、「小隊を見捨てた日本への復讐」とか「平和ボケした日本人に一発かまして目覚めさせる」といった思いもミジンコくらいはあったかもしれないが、最初に述べたようにそれは全くもっての逆恨みであって、小隊が全滅したのは柘植が保身に走ったためである。
ただ、ここで問題になるのは、あの才媛南雲しのぶがそんな間抜けをどうして振り切っていないのか、過去を合理化できていないのか。
結局 南雲しのぶもラストで柘植に会えて大喜びしている。顔には出してはいないが。
この不可思議な南雲の姿を見ると、エレベーターに乗って来た女の子の意味が分かってくる。
エレベーターに乗ってきた女の子の持つ意味
映画の序盤、南雲しのぶと柘植学校の卒業生2人がエレベーターに乗るシーンがあり、そこに何故か小さな女の子が乗ってくる。
なんとも押井守らしい謎シーンなのだが、もちろんあれは南雲しのぶの心象を表している。
彼女は「公演会場に誰かがいると思った」という言い方をしていたが、彼女は2人をきちんと認識しており、自分を追ってエレベーターに乗ることも分かっていたし、彼らが柘植学校に関連する話題をすることも分かっていた。
そして彼女はそんな話をしたくなかった。
エレベーターに乗ってきた女の子は「ああ、めんどくせー」と思った南雲の乖離した心の象徴であり、南雲は眼の前の人物と話してはいるがその本音の部分は2人からそっぽを向いて外を眺めているということになる。
ただし、問題なのはそれが小さな女の子だったという点である。
つまり、柘植の話題になると分かったときに乖離してしまった彼女の本音の部分は、極めて幼い女の子で象徴されるものであったことになる。
別の言い方をすると、「南雲しのぶ」という「キャラクター」は、極めて優れた能力を有する人物でありながら、色恋沙汰に関しては極めて幼い感覚を持っている存在として設定されているということが表現されている。
このように「状況からの逃避」、「内面にある幼さ」を表現するために謎の女の子はいた事になるのだが、これはもう少しだけ深刻な問題につながって行くことになる。
というのも、「機動警察パトレイバー2 the Movie」における南雲しのぶをそのように設定する必然性はない。平気な顔をして過去の男を逮捕するほうが所謂「女性」らしいしね。
となると、「南雲しのぶ」をそのような存在にしたのには理由があることになる。
重要なヒントは、「機動警察パトレイバー」の主人公 泉野明にみることができるだろう。
南雲しのぶに関するこの映画特有のシーンとしては母親との会話シーンがある。
「母親?」と思うかもしれないが、南雲が実家に帰ったシーン(柘植からの連絡をもらったシーン)にいた和服の女性である。
あまりにも控えめなので「お手伝いさん」とか「女中さん」に見えてしまうのだが、その後の荒川の台詞によって母親であったことが分かる。
そしてその服装と物腰から「名家の出」ということが見て取れる。
父と母のどちらの「直系」なのかは分からないが、どうにも封建的な家で育ったようだ。
母ともそれほどうまくいっているようにも見えないし、そういう状況で育った南雲のある種の「渇望」が柘植との不倫関係を生んだのかもしれない(何よりも父親が出てこないしね)。
考えすぎかもしれないが、こういう意図がないのなら、わざわざあのシーンを描く必要はなかった。私はそう思う。
「キャラクター」としての登場人物
「機動警察パトレイバー2 the Movie」の劇中では、我々が愛してやまなかった特車二課の面々はすでに現場を離れて様々な業務についている。
それだけで少々さびしい気持ちになるのだが、泉野明の次の台詞がこの物語の根本的な構造を表明している:
「私、いつまでもレイバーが好きなだけの女の子でいたくない。」この作品に至るまでの「泉野明」という人物がどのように描かれていたのかを思い出すと:
- とにかくレイバーが好き。
- 天才的な操縦者であり、とにかくレイバーが好き。
- 自機に「アルフォンス」と名付けるくらいレイバーが好き。
- アルフォンス以外に全く興味がないくらいレイバーが好き。
- それでいてちょっと遊馬に気があるようで、
- 指揮車に乗っている遊馬の言うことはよく聞くのだが、
- やっぱりアルフォンスが好き。
こんな具合だったのではないだろうか。
もちろんこんな人物が存在することに何ら矛盾はない。探せばいないこともないのだろう。
しかし、それがフィクションの登場人物であることとそれが消費者に与える印象(消費者に与えようとしている印象)を鑑みると、酷く都合の良い存在だろう。
彼女はとても快活で、レイバーが好きで、天才で、男の影がない。
泉野明はこのような「キャラクター」として設定されており、そのように振る舞うことを余儀なくされている。
一応断っておくが、私はそれを否定したいわけではな。何よりもこれはフィクションの世界のことであるし、俺は泉野明のことがとても好きだ(はずい!)。
そして、同じようなことが「南雲しのぶ」という人物にも当てはまるように思える。つまり、南雲しのぶは
- とてつもなく優秀で、
- 部下や周りの人々からの信頼が熱く、
- 実際やり手なのだが、
- なぜか男の匂いがしない。
こういうことをあえて言う事こそが無粋なのだが、泉野明も南雲しのぶも、「男の夢」とか「男の理想」の定型としてそこに存在していることになる。
つまり、若く血気盛んな時には同じように元気な誰か、様々な経験をした後には賢明な誰か。そして何故かその人は美しい。そんな理想ね。
そして、その理想の享受者としての後藤と遊馬が設定され、我々男は2人に感情移入しながら夢の世界を味わう。
逆に男達も、その文脈に乗っかって、俺達の代理人として物語の中で役割を演じていることになる。
結局のところ、彼らは人間というよりは、状況を作るための道具であり、都合のいい性質を持った傀儡となっている。
映画内における「南雲しのぶ」もこれまでの描かれ方を踏襲されたことになる。
そもそもフィクションとはそういうものであるので、それは全く悪いことではない。
しかし、「機動警察パトレイバー2 the Movie」はその状況を是正するために作られた作品と見ることができる。
人間に還っていく「キャラクター」達
先に述べた「私、いつまでもレイバーが好きなだけの女の子でいたくない。」という泉野明の台詞によって、泉野明は我々にとっての都合のいい「キャラクラー」ではなく「人間」になった。
あの台詞はそれまでの「パトレイバー」シリーズを見てきた人々(私を含む)にとっては極めで不合理であるのだが、同時に当たり前のことでもある。そりゃそうだ、「レイバーが好きなだけ」の人など存在しない。
あの一言を聞いたときに我々はなにか「都合の悪い気持ち」になるのだが、それによって泉野明は視聴者から自由になったと言える。もう泉野明は我々にとって都合のいい存在ではなくなったのである。
そのように考える時、ラストの南雲の雰囲気も結果的には理解ができる。
この作品までの南雲は所謂「完璧」な存在として描かれつつ、我々にとって理想的な(男の匂いのしない)存在として描かれる。しかし、結局のところ南雲にもどうしようもないことがあり、それは酷く色恋の問題であった。しかもその対象は後藤ではない。
結果的に、後藤は南雲にとって何でもない存在だったことが明らかになってしまった。
その結果として視聴者の男ども(もちろん私を含む)は後藤と同じように裏切られ、裏切られたことによって、南雲しのぶが「キャラクター」ではなく一人の「人間」として認知されるのである。
そして、この映画において「変化」を見せたのは南雲と泉だけではない。太田や進士さんも立場が変わり変化を見せている。
つまり、太田や進士も人間に還った(これに関しては異論があるかもしれない)。
そしてそれと同時に、人間に還れなかった存在が明らかになってくる。
もちろん、遊馬と後藤である。
取り残された男共
「機動警察パトレイバー2 the Movie」において遊馬と後藤は悲しいほどに変化がない。
遊馬はなにやらレイバーに詳しい男であり、泉野明に気がありながら上から目線で彼女に対応する面倒くさいやつでい続けているし、後藤はどれほど優秀でもその内面を隠し続ける隊長である。
この二人は「隊長と部下」でありながら、我々男どもにとってどちらも感情移入の対象となっている。何よりも、遊馬には野明、後藤には南雲がいる気がしていたから。
しかし、本作品で野明と南雲が人間に還ってしまうことによって、この2人の存在は浮遊してしまい、結果的に我々の気持ちも浮遊してしまう。
つまり、我々にとって非常に居心地の悪い作品となっている。
それは押井守の意図したことかどうかは分からないが、結果的にこの映画は「パトレイバーを卒業する物語」となっている。
男にとっての都合のいい「夢の世界」はこの作品をもって構造上は終了していることになっている、という見方もあるだろう。俺は全然卒業しなかったし、未だにしてないけどね!
そしてこのように、ちょっと斜に構えてこの作品を見てみると、後藤と柘植のラストの台詞の意味も少しずつ見えてくるように思われる。
「俺には連中だけか」という後藤と「この街の未来を見ていたい」という柘植
映画に限らず、物語の印象や感想を根本的に支配するのはおそらくラストシーンだろう。
そのような観点に立つと、「機動警察パトレイバー2 the Movie」は十分にぼんやりしてしまうラストだっただろう。
わざわざ桑田刑事に「これだけの事件を起こしながら、なぜ自決しなかった!」と言わせ、それの返答として柘植に「もう少し見ていたかったのかもしれないな、この街の未来を」と言わせている。
となると、この映画はその台詞のためにあったという見方もできるだろう。
ここで思い出すべきなのは劇場版第一作目である。
あの作品を一言でまとめると「変わりゆく『東京』への批判」であった。
何故そのような物語があり得るのかというと、監督の押井守が東京出身であるということが根本的な理由に挙げられると思う。
そのように「押井守」という監督を表舞台に立たせると柘植の言葉の意味もなんとなくわかってくる。
映画が「ラスト」のためにあるのなら、それこそが作り手の思いであり、メッセージになる。つまり、東京の行く末を見ていたかったのは押井守その人である。
となると、ラストシーンで明確に柘植と並列に描かれている後藤の言葉にも、押井守の思いが乗っかっている。
あの台詞は押井守の決意表明であるとともに、ある種の自虐と思える。
「俺は映画を作り続けるしかないんだ、しかもこういう映画が得意なんだ」というね。
以上が個人的に考えてみた「機動警察パトレイバー2 the Movie」であります。柘植行人の犯行動機を探ることから始めましたが最終的には映画についての全体的な話をすることができたと思います。
皆さんは柘植の犯行動機は結局何だったと思いますか?
おまけ:消えた米軍機
「機動警察パトレイバー2 the Movie」においては、様々なことが地に足ついた表現がなされ、理由付けがなされる。「おや?」と思っても、その直後に理由が説明されていることが多い。
しかし、最後の最後まで説明されなかったのが、ベイブリッジを爆撃することになった米軍機の行く末である。
これに関しては荒川から一言「行方不明」と説明されているが、そんなことあるか?戦闘機が「行方不明」なんて。
それこそ地に足ついた考えとしてあるのは、米軍が責任を持って撃墜してすべてをなかったことにし、それを隠蔽した。ということになるだろう。
これが有り得そうであることが日本の悲しいところなのだが、もう一つだけこれを合理化する方法論がある。
それは劇場版第1作目における「帆場暎一」と同じ存在と思う方法である。
1作目のラストの表現で分かるように、帆場暎一という存在は「いるような、いないようなもの」として表現されている。
結局のところ帆場暎一という人物の1つの理解の仕方は「変わりゆく『東京』という存在に対する怨念」として描かれている。
「機動警察パトレイバー2 the Movie」における米軍機も同じような存在として設定されているのではないだろうか。
後藤隊長がわざわざ強調したように爆破されたベイブリッジは事実である。したがって、あの米軍機のミサイル攻撃は映画の中における事実である。にも関わらず、いたのかいないのか分からない存在となっている。
となると、あの米軍機は物語上実在した存在であるとともに、状況に対する不満の象徴だったということもできるだろう。
象徴なのだから実態がないし、いるのかいないのか分からない。
そしてこのような存在は、実写版の「THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦」にまで続く。
この作品には「グレイゴースト」なるステルス戦闘ヘリが登場し再び首都が混乱陥るのだが、そのパイロットである「灰原零」は明確に存在しているのに、実際にいないような表現がなされている。
結局、押井守作品としての「機動警察パトレイバー」は「東京とはなにか」を描く物語であり、そこに浮遊する「ゴースト」のような思いを捉え続ける物語ということになるのかもしれない。
押井守が故郷である「東京」について、再びなにかを思った時、再び「パトレイバー」が押井作品として復活するのだろう。
それがいいことかどうかは分からないが。
この記事を書いた人
最新記事
- 2024年11月14日
「ポチップ」をなんとか「Classic Editor」で使う方法 - 2024年11月13日
【GA4】Google Analytics 4の遅延読み込み用JavaScript - 2024年11月12日
【jQueryなし】表示された画像をふわっとフェードインさせる方法 - 2024年11月8日
【JIN】WordPressの<p>タグや<br>タグの自動挿入を停止してブログカードの機能を維持する方法 - 2024年11月7日
【jQueryなし】Youtubeの埋め込み動画を遅延読込してふわっとフェードインさせる方法