「火垂るの墓」は1988年に公開された高畑勲監督による劇場用アニメーションである。野坂昭如による同名小説を原作とし、太平洋戦争末期から戦後を描いている。
空襲で母を失い、海軍大尉であった父とも連絡が取れなくなってしまった兄(清太)と妹(節子)の生きる様が物語の中心となっており、最終的には栄養失調からくる衰弱によって妹は亡くなり、その1ヶ月後に同様の理由から兄もなくなってしまう。
その結末のあまりの悲しさからこの映画は「一生に一度見て、二度と見ることのない映画」となっていると思う。
そして、妹である節子の死についてどうしても清太を責めたくなるという問題も生じている。
清太は自分たちを引き取ってくれた叔母との折り合いが悪くなり、ある意味では「売り言葉に買い言葉」で清太は節子と横穴(防空壕)での生活を始めてしまう。結果的に生活苦に陥り節子が栄養失調でなくなったのだから映画を見た人が清太に対して「ひとこと叔母さんに謝れよ!」と思うのも無理はないだろう。
この記事ではそんな清太についてもう少し思いを馳せてみようと思う。節子を死に追いやったのが清太だという事実は変わらないと思うが、この記事で一番言いたいことは「『火垂るの墓』は2度見たほうが良い」ということである(3度はいらないが)。
これがどういう意味なのか、少しずつ考えていこう。
「火垂るの墓」で描かれる清太の変貌と描かれない心の傷
叔母の家に行く前の清太
一度でも「火垂るの墓」を見たことのある人なら主人公 清太に対して概ね以下のような印象を持っているかもしれない:
- 叔母の家に居候しているのに何もしない怠け者
- 戦争という混乱期に自分のことしか考えないわがまま
- そのわがままに妹を巻き込んで殺した愚か者
実際清太にはこのような側面があり、私としても特段否定はしないのだが、物語の序盤の清太を再度見てみると全く印象が変わってくる。つまり清太は、
- 心臓の悪い母に変わって節子の世話をしており母からの信頼も厚く、
- 防空壕に逃げる前に梅干しや米を庭先に埋めるなどの準備をきちんとこなしており、
- 大火傷を負って包帯グルグル巻きの母を見ても取り乱すことがなく、
- 母に会えずに寂しがる節子を懸命に慰めており、
- 「もの」のように扱われて母が火葬される状況にもきちんと立ち会い、
- 節子を連れて親戚の下にたどり着いている。
なんというか、きちんとした立派な少年となっている。
序盤の清太の姿を見てしまうと、どうも後半における清太が別人のようにも思えてしまう。あの清太なら叔母さんと「売り言葉に買い言葉」のような状況にはならなかったし、少なくとも積極的に家事を手伝っていたようにしか思えない。
清太にはなにかあったと考えるのが自然ではないだろうか?
清太が流した涙と心の傷
清太が変貌してしまった原因のほぼ唯一のヒントとなるのは、物語の後半で節子が大量の蛍を自分で作った穴に埋めているシーンである。
埋められる大量の蛍を見た清太は自分の母も同じように穴に投げ捨てられる光景を思い出す。
このシーンで清太が流した涙には「節子がすでに母の死を知っていながら懸命に生活していたことに対する涙」と「ずっと自分の中に隠していた母の死とその扱われ方に対する衝撃の表出」という2つの意味があると思われる。
もう一度清太の経験を振り返ってみると、
- 神戸大空襲の中を死の恐怖と戦いながら逃げ回り、
- なんとか逃げ延びたと思ったら母は全身大火傷を負って包帯でグルグル巻きになっており、優しい母の面影もない状態で、
- その亡骸は「もの」のように扱われて他の遺体と共に穴に放り込まれ、
- たくさんの遺体の遺骨が混ざったものを母の遺骨として手渡される
というような、おおよそ14歳の少年が耐えられるとは思えないものである。
そして実際彼の心は耐えられなかったのだろう。
彼の心はズタボロになっていたのだが、節子の面倒を自分が見なければならないという使命感と節子への愛情によって僅かに正気を保っていたに違いない。
だから彼は節子の世話はするが、節子の世話意外出来ない存在となってしまっていた。それ以外のことをする力はすでに残されていなかったということになると思う。
我々が清太を思い出す時、それはいつでも節子の悲劇とセットであるため、清太に対して寄り添うということが大変に難しくなるのだが、叔母の家に行く前の清太の姿を見ると、戦争という悲劇が彼の心を壊してしまったという味方も出来るはずである。責めるなら彼の心を壊した戦争(神戸大空襲)であるべきだろう。
そしてそんな清太を思う時、ついつい「新世紀エヴァンゲリオン」の主人公 碇シンジのことを思い出してしまう。
碇シンジ評と清太評の比較
旧劇場版で決定づけられた碇シンジのイメージ
碇シンジ君といえば「新世紀エヴァンゲリオン」の主人公である。今でこそ「シン・エヴァンゲリオン」までが制作されてきちんと完結しているので、碇シンジという存在の評価はある程度落ち着いたと思うのだが、1997年に「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に」(いわゆる「旧劇場版」)が公開されたあとの碇シンジに対する評価は大変にひどいものであった。
当時の碇シンジ君は、
- ウジウジして自分では何も決められず、
- 極めて他逆的で、
- 病室のベッドにいる女の子(アスカ)で擦っちゃうようなキモいやつで、
- 自分で選んだセカイも肯定できない間抜け
と成り果てていたし、実際「旧劇場版」で描かれていた碇シンジはそうであった。
ところが、「旧劇場版」を見たあとにTV版の「エヴァンゲリオン」を見ると、「あれ?シンジ君頑張ってるじゃん!」と多くの人が思ったと推定される。TV版のシンジ君は、
- 音信不通だった間抜けな父から「エヴァに乗れ」と狂ったことを突然言われ、
- 逃げ出したい気持ちを押し殺して使徒と戦い、
- 使い物にならない大人に囲まれながらも必死に生きて、
- 小さな恋をしながら、
- 不条理な現実に抵抗し、
- 全ての存在(children)は祝福されているというエンディングを導いた。
どう考えたってシンジ君は頑張っているし、どうしようもない現実と14歳の少年なりに戦っている。清太と同じように立派な少年であった。
ところが「旧劇場版」があったが故に、この立派に生き抜いた少年の評価は地に落ちてしまったわけである(「シン・エヴァンゲリオン」があるから現代的には問題ないのだが)。
「火垂るの墓」は頑張って2度見ようという話
「火垂るの墓」においては「新世紀エヴァンゲリオン」で起こったことが一つの映画の中で発生してしまっているのではないだろうか。
我々は「節子の死」という物語のラストで描かれる最大の悲劇に引っ張られて、その実質的な原因である清太を責めてしまう。あいつはダメなやつだと。
もちろん、「旧劇場版」のシンジ君が本当に「ダメなやつ」になっていたように「火垂るの墓」の清太も本当に「ダメなやつ」になっている。その事実は変わらない。
しかし、TV版の「エヴァンゲリオン」を振り返ることによって碇シンジの見え方が変わるように、もう一度だけ「火垂るの墓」を見ると清太の見え方は少しだけ変わるかもしれない。彼は物語の序盤では確かに立派な少年だった。
三回見る必要はない。ただ、もう一度だけ「火垂るの墓」を見て、清太の心の傷に思いを馳せても良いのではないだろうか。
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