セカイ系とは?
この世界には「セカイ系(世界系)」という言葉が存在している。具体的に説明しようとすると少々手こずるが、何やら妙な納得感のある言葉で、何の説明なしに心に染み入ってくる。しかしながら、今回は史上初の「世界系主人公」は誰かということを考えたいので、どうしても意味を確定させなくてはならない。Wikipediaなどに色々書いてはいるのだが、この文章中では
「主人公の問題と世界の問題が直結し、主人公の問題解決が世界に甚大な影響を与える作品」
くらいにしておこうと思う。もちろんこれで全ての「セカイ系」を網羅しているとは思わないが、概ねよいのではないかと思う。
「セカイ系」という概念がそもそも強烈にエヴァンゲリオンという作品に影響を受けており、基本的には「エヴァンゲリオン以後」の概念である。したがって、「セカイ系主人公」がエヴァンゲリオンに本来いるわけもないのだが、私の考えでは史上最初の「セカイ系主人公」を排出したのはやはりエヴァンゲリオンだと思う。つまり、碇シンジが最初の「セカイ系主人公」かというと、そうではない。史上初の「セカイ系主人公」は碇ゲンドウである。
新世紀エヴァンゲリオン
「新世紀エヴァンゲリオン」とは1995年から1996年にかけて放送された庵野秀明監督のTVアニメ作品である。「ゼーレ」「使徒」「人類補完計画」など、見る人を引きつける謎が散りばめられていたものの、TV放送時にその謎が回収されることはなく、1997年に公開された劇場版まで持ち越しとなった。
私は以前、TV版のエンディングについて、我々がなぜ納得できなかったなについて書いた。
そこでの重要なポイントは「TV版エヴァンゲリオンにおいては世界の主人公と物語の主人公に隔たりがあった」ということであった。
もちろん物語の主人公は碇シンジである。彼が抱えた問題を解決させるような現代的なリアリティーがなかったために「おめでとう」を言うしかなかったのである。では「世界の主人公は?」というと、それはもちろん碇ゲンドウである。
碇シンジくんはエヴァンゲリオンの世界においては残念なことにモブキャラの一人であり、彼がどう足掻こうとも世界は変わらないし、彼の預かり知らないところで世界は急激な変化を進めている。
そこに唯一自らの意思でコミットしているのが碇ゲンドウである。一番暗躍しているのはゼーレなのだが、構造としては、ゼーレという秘密結社を利用、または騙しきって自らの目的を懸命に達成しようというゲンドウの方がやはり「主人公」としてはふさわしいだろう。では、世界を騙しきってまでゲンドウが実現したかったことはなんであったか?
旧劇場版で明かされる碇ゲンドウの目的
TVシリーズでは良い有りげな、それこそ、言動を繰り返し、我々やシンジくんを煙に巻いていたゲンドウだが、結局の所、彼が実現したかったことは、
「エヴァの中に消えた愛する嫁さん碇ユイにもう一度会うこと」
「まじかよゲンドウ」と多くの観客は思ったことだろう。一応TVシリーズにめちゃくちゃわかりにくいヒントが存在している。TVシリーズ第15話「嘘と沈黙」で、シンジとゲンドウがユイの墓参り(というか慰霊碑参り)をしている時のゲンドウのセリフ:
「人は思い出を忘れることで生きて行ける。だが決して忘れてはならないこともある。ユイはそのかけがえのないものを教えてくれた。私はその確認をするためにここに来ている。」
つまり、「パパはママのことを今でも愛しているんだよ!日頃会わないお前を連れてくるのもそれを伝えたかったのさ!分かるだろシンジ!パパはママに今でも会いたいのさ!」とゲンドウくんなりに言っているだろけど、こんなんで分かるわけねえだろ。
この会話でシンジくんが自分の父親の目的に気づけるくらいの人間ならあんなに苦しまなかったであろう。寡黙に、そしてただひたむきに目的のために邁進したゲンドウくん。自分の息子がその背中を見て前に進んでくれることを望んだらしい。
旧劇場版で起きたミラクル
このように、碇ゲンドウの内面の問題は「碇ユイ」に会うことであり、それを実現するために人類補完計画を利用し、世界の有り様を変えようとしていたのである。
しかも作戦成功の一歩手前まで行っていた。まさにセカイ系じゃないか!碇ゲンドウの年齢は48だそうだ。おそらく今後も最高齢のセカイ系主人公だろう。ゲンドウよ、セカイ系をやって良いのは高校生までだ。その年になったら少しは人の迷惑というものを考えなさい。
さて、物語の主人公としてひたすら人間関係に苦しんでいた息子シンジを後目に、ゲンドウくんは着々と作戦を進めていた。ところが最後の最後に作戦は失敗する。しかも、彼の作戦を阻止したのは、息子碇シンジである。
それだけでなく、シンジは最終的に世界の主人公の座を父親から奪い取ったのである。
物語の進行以外のところが気になりすぎて、旧劇場版ってどういうはなしだったかわからなくなるが、構造上は「シンジが父親を乗り越える物語」であるし、最後の方をみると「初号機の中に眠る母親との別れの物語」になっている。
つまり「父よありがとう、母よさようなら」である。ところがあまり「全てのチルドレンおめでとう」とはならなかったために、我々は旧劇場版の物語の構造がわからなくなっちゃたよね(TV版の終わり方が如何に素晴らしかったかも分かる)。まとめると、
「セカイ系」という概念そのものはエヴァ以降のものであるが、「嫁さんに会いたい」という個人的な目的のために世界を変容させようとした碇ゲンドウこそ、史上初のセカイ系主人公である。しかし、物語の主人公ではあったが世界の主人公ではなかった碇シンジは、旧劇場版の最後の最後で碇ゲンドウから主人公の座を奪い取り、父を乗り越えたのである。
こう考えるとちゃんと旧劇場版は「父を乗り越える」いい話になっていたじゃないか。なんであんなことになったんだろう。
最後に
エヴァンゲリオン旧劇場版は、構造だけを抜き出すといい話になっているのだが、あの映画の最も衝撃的なところは「お前ら!アニメなんか見てないで日常に帰れ!気持ち悪いんだよ!」と庵野秀明監督からお叱りを受けるところにある。
「あんたが面白いもの創るから悪いんだろ!」と言いたいところだが、自分が作ってしまったものに責任を感じるんだろうか。このへんは宮崎駿監督に近い感覚かもしれない。「子供にトトロを見せる親なんて最低だ!」と宮崎監督はお冠だそうだ(「テレビで」日常的に見せているということが本質的に問題なんだろうけれど)。
確かに我々は旧劇場版で叱られるのだけれど、そういう他者に対する攻撃性だけで作品を作れるとは思わない。どこか自分自身に対する攻撃性があったために、結果的にあのような形で作品に現れたという側面もあるのではないだろうか。まあそれでも俺たちは、庵野監督のお叱りを心に留めて、きちんと日常を生き、ほんとに暇な時にだけアニメを見ましょう。それくらいは庵野監督も許してくれるのではないだろうか。
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