「イニシェリン島の精霊(The Banshees of Inisherin)」は2023年に公開(アメリカ、イギリスでは2022年公開)された、マーティン・マクドナー監督作品である。
なんとも全体的に陰鬱でありながら、頑なにユーモアシーンをぶっこみ続けるという不可思議な作品であった。
その上、同じ監督の「スリー・ビルボード」同様に、何も終わらないばかりかラストが始まりの作品になっているので、自分が見たものが何だったのかを考えざるを得ない作りになっている。
ということで、「イニシェリン島の精霊」についてはあれがどういう物語だったのかを考えようと思うのだが、ある程度の決着をつけなくてはいけないのは、
- コルムが指を切るという凶行に出た理由(意味)
- 「イニシェリン島の精霊(The Banshees of Inisherin)」というタイトルの意味
となるだろう。もちろん、指を切って包帯を巻いただけで何事もなく生活できるなんてどう考えてもおかしいので、あれは一種の比喩表現と考えるべきである。
その上でその意味を探るのがとりあえずは懸命であろうと思うが・・・最終的な「とんでも考察」では本当に指を切ったという立場に立って物事を考えていこうと思う。
とりあえずは物語のあらすじを振り返ることから始めよう。
「イニシェリン島の精霊」のあらすじ
物語の主人公はアイルランドの「イニシェリン島(この島は架空の島であるが、撮影地は名前のよく似たアイルランドのイニシュモア島であった)」に暮らすパードリック。妹のシボーンと二人暮らしの彼は、牧畜を営んでいた。
彼は毎日午後二時になると、年の離れた友人コルムとパブでビールを飲んで語り合うことを日々の楽しみにしていたが、ある日突然コルムから絶縁を告げられる。
パードリックはその理由を問いただすがコルムは「お前がつまらない人間だから」としか答えてくれない。そして「音楽を作る静寂」がほしいと述べるばかりだった。そして、そんなコルムの拒絶は決定的なものであり「次に話しかけたら自分は指を切る」とまで言い出した。
コルムはバイオリン奏者であり、彼が指を失うということは彼の人生の大きな部分を失うことであった。そんなものを失ってまでもコルムはパードリックとの絶縁を望んでいた。
誰もが「脅し」としか思っていたなかったコルムの覚悟は、ある日実現していまう。その前の晩、パードリックはパブでコルムに絡んでしまう。パードリックはそんな理不尽な拒絶を前にしてもコルムとの関係改善を望んでいたのである。しかし、その次の日、最も絶望的な形でパードリックの行動は裏目に出てしまった。コルムは本当に左手の人差し指を切り取り、パードリックの家のドアに投げつけたのである。
それでもなおコルムとの関係改善を望んでしまったパードリックの行動は、どんどん状況を悪化させ、結果的にコルムは左手のすべての指を切り取り、パードリックの家のドアに投げつけるまでに至った。
しかしそこで悲劇が起こる。
コルムが投げつけた指を誤飲した家畜のポニー ジェシーが死んでしまう。パードリックにとってジェシーはとても大切な存在だった。
その時から、パードリックの思いは「コルムとの和解」ではなく「コルムへの復習」へと転換。パードリックは「お前の家を焼く、家の中は見ない」と戦線を布告する。
コルム自身もジェシーの死に動揺し、その戦線布告があったのにもかかわらず、パードリックが家に火をつける中、家に留まっていた。
死を選んだに見えたコルムであったが、結果的に燃え盛る家から逃げ出した。
物語のラスト、コルムは「家が燃えたことであいこ」と提案したが、「お前が死んでいない」とパードリックはその提案を拒む。
かつて朋友であった二人は、無限の闘争のなかにその身を置くことになるのだった。
「イニシェリン島の精霊」の考察と感想
戦争映画としての「イニシェリン島の精霊」
「イニシェリン島の精霊」はコルムが突然パードリックを拒絶することから始まる。
コルムが語ったその理由をまとめると「残り少ない人生の中で、何か(彼にとっては音楽)を生み出すために時間を使いたい。君のような退屈な人間とか変わっている暇はない」というものだった。
コルムの突然の判断に何やら違和感を覚えた人も多いだろうが、パードリックのキャスティングの妙技もあって、コルムのこの発言に一定の説得力を感じてしまったのは私だけではないだろう。
物語の最後の最後でジェシーが死ぬまで、これでもかとパードリックが退屈な人間である描写がなされている。しかも少々・・・まぬけであることも示唆される。
ただ、コルムにはパードリックと仲良くしていた時期が確かに存在している。毎日午後2時になるとパードリックとパブに行き、後にコルムが「退屈」と評する会話を楽しんでいたのである。
それが突然、音楽を作るための静寂を求めた。
この突発的な行動を理解するために、作品中でわかりやすく描かれているのが「アイルランド内戦」である。この内戦は1922年6月28日から1923年5月24日まで続いたもので、この映画の世界はそのど真ん中にあったことになる。しかもつい最近まで第一次世界大戦(1914-1918)が発生していたし、そもそもその後に起こった「アイルランド独立戦争」がこの内戦の元になっている。
しかも、アイルランドとイギリスの関係はこの「アイルランド内戦」で決着がついたわけではなく結局は1960年代後半に始まる「北アイルランド問題」が待ち構えており、アイルランドという地域はず~っと何かしらの火種を抱えていたことになる(その前に第二次大戦があるしね)。
そういったアイルランドの状態や「戦争」というものそのものが、コルムとパードリックに投影されていると考えるのが、この映画を見る第一歩だろう。
つまり、コルムの突然の態度の変化は「戦争が発生する」という状況そのものの象徴であるし、パードリックの困惑はそれに翻弄される庶民の姿であるし、懸命に状況を改善しようとしても相手の対応がナシのつぶてであることも、戦争がもつ姿を現している。
そして、その戦争の状態の中でも、人びとの生活は意外と普通に営まれていたりする。
「イニシェリン島の精霊」はコルムとパードリックの関係を利用して、アイルランドの内戦や「戦争」そのものがもつ現実を描いた作品ということが出来ると思う。
物語の最期、「内戦も終わりか(I think they’re coming to the end of it)」と語りかけるコルムに対して、「どうせまた始まるさ。終わりにできないものものある(I’m sure they’ll be at it again soon enough, aren’t you? Somethings, there’s no movin’on from.)」とパードリックが答えるのも、アイルランドという地域の持つ命運や「戦争」というものに対する一般的な批判であると思う。
パードリックがそういった状態に対して「悪いことじゃない(I think that’s a good thing)」と言ったことについては少々不可思議に感じるかもしれないが、これはおそらく監督のマーティン・マクドナーのバックグラウンドに理由があると思われる。
マーティン・マクドナー監督の両親はアイルランド人であり、自身もイギリスとアイルランドの両方の国籍を有している(これが日本人には分かりづらいよね)。
そいういうバックグラウンドをもつ監督が「アイルランド」と「イギリス(England)」の関係を描いたと考えると、「アイルランドとイングランドのいざこざがあることは悪いことじゃない」という意味合いになっていると取ることが出来る。この場合、アイルランドはパードリックで、イングランドはコルムということになるのだろう。
考察1の結論としては、「イニシェリン島の精霊」はマーティン・マクドナー監督の「アイルランドとは」を描いた作品ということになるだろう。
一応これくらいでも映画を見た感想としては十分な気もするが、個人的な感覚としてはこれは物語の「表層」であって、もうすこし噛みしめるべきものがあるように感じる。
それを紐解く一歩目として、「イニシェリン島の精霊」で命を失ったドミニクとジェシーについて考えていこう。
ここからが個人ブログらしい記事の始まりである。
ドミニクとジェシーの死がもつ意味
映画の原題「The Banshees of Inisherin」の「Banshee(以下バンシー)」はアイルランドに伝わる妖精であり、バンシーの声が聞こえた家では近く死者がでると言い伝えられている。
「イニシェリン島の妖精」に登場したマコーミックがその妖精の役割を演じていることは明らかだろう。
パードリックはどうやらマコーミックを避けているし、シボーンも問題が怒らないようにパードリックがマコーミックに会わないようにしている。理由はいくつか考えられるが、パードリックのシボーンの両親の死をマコーミックが予言したからではないだろうか。彼女の予言の通り両親が死んでしまったため、パードリックはマコーミックに対して苦手意識をもっているし、ある種の敵意をもっていると考えることも出来る。可能性に過ぎないが。
そんなマコーミックが物語の終盤で「二人の死」を予言し、結果的にドミニクとジェシー(パードリックのポニー)が命を失う事となった。
この二人の死が意味するところはなんだろうか?
この意味を探るためのヒントは4つ、
- パードリックはパブの店主と客からから酒さえ飲んでなければ「いいやつ」と言われていたこと
- 酒によったパードリックがコルムに対して「優しさ」について語ったこと、
- パードリックが人を欺いたことを知り、「いいやつ」ではなくなったとドミニクに断じられたこと、
- そんなパードリックに寄り添ってくれていたのは、ドミニクとジェシーだけだったという事実
になる。パードリックの妹や島のすべての人が口ごもり、警察官と雑貨屋の女主人だけが断じていたように、パードリックは「退屈」な人間である。しかし、同時に「いいやつ」でもある。
コルムはそんな「退屈」なパードリックとの拒絶を宣言するが、ドミニクとジェシーだけはそんなパードリックに寄り添い続けてくれた。
そんな二人の死が意味するものはなにか?
それは、ドミニクとジェシーだけが「価値」として認めていたパードリックの「優しさ(niceness)」をパードリックが永遠に失い、別の人間になってしまったということを意味している。
シボーンもパードリックに寄り添っているようにも見えるが、心の内では兄を「愚か者」と思っている。他の島の人びとも。
結局、もう「優しいパードリック」は帰ってことがドミニクとジェシーの死によって表現されているのである。
また、ドミニクが変わってしまったパードリックを「意地悪」、「他のやつと同じだ」と評したことは、ある意味で「優しいパードリックの死」を宣告しているようなものである。
そのように考えると「The Banshees of Inisherin」のBansheesは、マコーミックだけではなく、ドミニクをも表したものだったのではないだろうか。そしてドミニクが死んでしまったイニシェリン島は、ある意味で「妖精のいない島」「現代と地続きになった島」ということにもなるだろう。そこには優しい人間同士の触れ合いはもうない。
「イニシェリン島の精霊」というタイトルは、「それが失われた島」を逆説的に強調するものであり、物語のラストでイニシェリン島が「現代」になったということを我々に伝える役割があったと個人的には思う。
一般的に英語でロバ(ass, donkey)は「バカ」とか「間抜けな人」を意味する。パードリックがロバと仲良くしているというのは、「パードリックはassだ」ということをわかりやすく表していることになる。
一方キリスト教においてロバは「優しさ」や「平和」の象徴ともなっている。
この二重性は「イニシェリン島の精霊」におけるパードリックという存在そのものと言えるだろう。
「通貨」としての「情報」とコルムの判断
「イニシェリン島の精霊」に登場する印象的な人物に、雑貨屋(?)の女店主がいるだろう。
彼女は頑なに「情報(news)」を欲しがり、パードリックが商品を納入しても頑なにその代金を払おうとしなかった。
彼女の頑なな姿勢は、あの島にいる人々にとっての「情報」にどれほど価値があるのかを表してる。商品を納入した人物に代金を払うことを拒むくらい、「新しい情報」が大事なのである。つまり、「情報」は「通貨」と同じくらいの価値を持っているのである。別の表現をするならば、「情報」を持たないものは、別の「価値」を手に入れることができない、あるいは憚られる存在となっているのである。
パードリックは警官に反抗するように、警官が息子であるドミニクを虐待している事実を伝えるが、ドミニクは「ろくでなし」だからそんなもの「news」ではないと女主人は断じる(実際ドミニクはパブから出禁を食らっていたのだから「ろくでなし」と傍からは見えたのだろう、特に女関係で)。
このシーンに色々と思うところがあると思うが、これが「news」ではない理由は、ドミニクが「ろくでなし」だからではなく、警官がドミニクを虐待している事実をみんな知っているからではないだろいうか。島の人々がその事実を知っていないと思うくらいにパードリックは「善良」だったのである。
また、あのシーンのあとに警官がパードリックを殴る姿が描かれるが、女主人がパードリックの話を「面白い」と乗っかっていたら、女主人も同じ目にあっていたかもしれない。
このように考えると、あのシーンは結構絶妙なシーンだったと思える。
ここでコルムに帰ると、彼がパードリックを拒絶した理由は、パードリックが「退屈」であるからだった。パブの店主や客の態度を見ると、それは島にいるすべての人が共有している感覚だったと思われる。
つまり、パードリックは全く「新しい情報」を提供しないのである。
では、毎日午後2時になると、パードリックとパブに行くコルムはどうだったのか?
雑貨屋の女店主が言っていたように、コルムも寡黙で情報を提供しない人物だった。それはおそらく寡黙であるというコルムの人間性以上に、本当に新しい情報を持っていなかったのだろう。毎日のようにパードリックと飲んでいたのだから。
そんなコルムは自分が「通貨」を持っていないことに気がついた。
しかし、なんの代わり映えもしないイニシェリン島で、新しい情報など手に入れることなど出来るはずもない。そんな彼が考えたことは、自分自身が新しい情報になるということだったのだろう。
コルムが音楽を作り続ける限り、彼は新しい情報であり続ける事ができるし、島の中で価値ある人物あることが出来る。
この文脈で「イニシェリン島の精霊」を考えると、コルムがパードリックを拒絶した理由は、パードリックと関わり続ける限り自分が無価値であることを自覚させられ続けるからということになるだろう。パードリックはコルムを映す鏡だったのである。
また、コルムが自分の指を切断するという凶行にでたのも、「自分がパードリックのようであること」の絶望感の裏返しであると言えるだろう。演奏家としての能力を失ってでも、彼は新しい情報を作り出すことに酷く固執したのである。
コルムは自分が「新しい情報」を持っていないことに絶望したわけだが、雑貨屋の主人が望むような「ゴシップ」を集めるようなこともしなかった。
それは、コルムが自分以外の島の人間を根本的に下に見ているからだろう。それはシボーンも同じだったと思われる。だからコルムもシボーンも「ゴシップ」を提供しなかったのである。パードリックはただつまらない男なだけだったが。
その上で自分の停滞と戦うために、音楽制作という「高尚な作業」を選ぶことによって自分のプライドを守ったのだろう。
まとめ:「情報」が無価値になる現代とパードリックの「優しさ」
ここでは、これまで考えてきたことを踏まえ、「イニシェリン島の精霊」という映画が現代的にもつ意味について考えていこう。
この物語の根本的な推進剤はイニシェリン島の人々が「情報に餓えている」という状況そのものである。
では、現代を生きる我々はどうだろうか?
現代を生きる我々は、イニシェリン島の人々とは全く逆の状態にあり、日々新しい「情報」にさらされ、常に満腹状態である。別の表現をするならば、自分が望まなくても「情報」が無償で提供され続けるという意味において、「情報」は無価値である。少なくともイニシェリン島の人々が求めている「情報」などいくらでも手に入る状態になっている。
では、そんな「情報」が無価値になってしまった現代の我々は何を「通貨」として他者と交換するべきなのだろうか?
それこそがパードリックがパブで延々と語った「優しさ(niceness)」ということになるのだろう。
パードリックは状況の変化とともに「優しさ」を失ってしまい、延々と終わることのない闘争のなかに身を置くことを決めて物語は終了するが、未来を生きる私達はもう一度「優しさ」に立ち返ってみるのもいいのではないか。
メッセージ性としてはなんとも陳腐ではあるが、変わってしまったパードリックと変わる前のパードリックのどちらでありたいかということは真面目に考えてみるのは意味のあることだろうと私は思う。
とりあえずここまでで地に足のついた考察と感想は終了である。ここからは少々妄想がすぎると思われる「とんでも考察」を始めようと思う。最終目標は「コルムが指を切る」という行動が比喩ではなく実際であるという立場を取りながら、その理由を探ることである。
まずはこれみよがしに飾られていたコルムの家のお面について考えよう。
とんでも考察①:コルムの家にある仮面
コルムの自宅には様々な雑貨が描かれているが、その中でも何やら「仮面」がたくさん飾られている。わざわざ能面まで用意されている。流石に能面は意図的に用意しないと存在できないと思われるので、なにかしら意味があったと考えるべきだろう。
ではその理由はなにか?
そんなもの、コルムが心に仮面を被っているということを表現してるに決まっている。
つまり、彼はず~っと嘘をついているのである。では、どんな嘘をついたのか?
そのヒントとなりうるのは、協会での「懺悔」のシーンだろう。というかそこしか根拠になりそうなものがない。
とんでも考察②:「懺悔」が描かれた意図
「イニシェリン島の精霊」ではわざわざコルムにが「懺悔(告解)」を行うシーンが描かれるが、そこでコルムが語った「罪」は
- 飲酒(drinking)
- みだらな想像(impure thoughts)
- うぬぼれ(a bit of pride)
- ロバの殺害(killed a miniature donkey)
- 自傷行為(self-mutilation)
の5つである。神父は彼に「警官を殴ったこと」についても問いただしたが、コルムは罪とは思っていなかったし、軽く受け流していた。
一方、コルムが極端な反応を示したのが「パードリックにみだらな想像をしたか」という神父の質問だった。
これには様々な理由が考えられるだろうが、そもそもキリスト教世界では古くから同性愛者は迫害してきたわけで、自分がそういう人間であると疑いをかけられたことに腹を立てたということもひとつの可能性だろう。
ただ、私はもう一つの可能性を考えたい。そのヒントは、「あんたもその一人」と返された神父の激昂だろう。
神父の激昂の背景にあったのは間違いなく「カトリック教会の性的虐待事件」である。
日本でぼんやり行きている我々も、「教会の人間による児童虐待」のニュースは断続的に目にしてきたと思う。事実として極めて長い間、司祭や修道士による児童虐待が行われていたのである。
しかも、その対象は少女よりも少年の比率が大きかったという。
この事実については私自身なんとなく「そういうもの」と認識していましたが、少年の被害者のほうが多かったという事実については、以下の記事しか発見できませんでした:
「世界が激震した《カトリック教会での性虐待スキャンダル》のいま」
この点の認識については注意してください。
つまり、あの神父が激昂した理由は、本当に男に「みだらな想像(impure thoughts)」をもつ人物であり、それを隠しているのにも関わらずそこを付かれたからということになるだろう。
しかも、ドミニクを虐待していた警官と仲が良かった描写があるということは、神父は実際に児童を虐待していたし、ひるがえって、警官はドミニクを「性的にも」虐待していたということの証左になるだろう。
そしてそんな神父と同様に、必要以上の反論をしてしまったコルムはおそらくパードリックを「みだらな想像(impure thoughts)」の対象としていたのではないだろうか。
つまり、コルムの部屋にあった「仮面」が表現したコルムの秘密は「パードリックへの恋慕の思い」である。
とんでも考察③:コルムが指を切った理由
さて、コルムが「パードリックへの恋慕の思い」を隠していたとして、なぜ「イニシェリン島の精霊」になってしまったのだろうか?
答えは彼がキリスト教徒だからということに行き着くことになると思う。
今でこそ「進歩的なキリスト教徒」なる存在がそこかしらにいると思うのだが、彼が生きた時代は1800年代後半から1900年代前半である。自分の信仰と自分の真実の間で、彼は本当に苦しんでしまったのである。
そんな「青春の悩み」に苦しんでいる中、のんきに行きているパードリックの姿は本当に不愉快だっただろう。
では、コルムは何故指を切ったのか?
それは、自分が犯した罪に対する罰であろう。
彼は毎日午後2時になると一緒にパブで飲んでいるパードリックに対して「友情」ではなく「恋慕」の思いがあることに気がつく。しかし、キリスト教徒であるかれはそれを認めるわけにはいかないし、パードリックと会うということはパードリックをその罪の共犯にすることになる。
だからコルムはどうしてもパードリックを遠ざけたかった。
ところがパードリックは頑なに関係を維持しようと自分によってくる。コルムが最初の指を切ったのは、パブでパードリックが食ってかかってきた次の日のことだった。ドミニクによるとコルムは「これまでで一番おもしろかった」と言っていたらしい。
コルムはいつもと違うパードリックの姿に何やら興奮してしまった。次の日その気持を落ち着かせようと思っていたのに、パードリックがわざわざ謝りに来る。
「わざわざ来るなよ!」と思ったかもしれない。「君が来てくれて嬉しくなってしまったじゃないか!」と思ったかもしれな。
何れにせよ、コルムはパードリックの行動を喜んでしまったのである。
その罪の罰として、彼は本当に指をきったのである。
最終的に残りの指を切ったときも、パードリックはコルムが曲を作り上げた喜びのときに来てくれた。コルムはその事実に喜んでしまったのである。だから彼はキリスト教徒として自分を罰した。感じてはならない喜びを感じてしまったから。
以上で「とんでも考察」は終了である。「とんでも考察」はどうにも妄想がすぎるとは思うが、「イニシェリン島の精霊」で描かれた多くのシーンを網羅的に回収するという点においてはある程度の説得力はあると思う。
皆さんはどのように「イニシェリン島の精霊」を見ただろうか。
この記事を書いた人
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