2021年3月8日。それはエヴァンゲリオンが完結した日である。TVシーリーズが放送されてから、我々を魅了し、歓喜させ、困惑させ続けた作品が対に終わった。
私は公開初日に見に行き、その日のうちに感想を書いた。
今回は、その時に考えたことも踏まえつつ、「シン・エヴァンゲリオン」は結局の所どういう話だったのかを考えようと思う。そのためにまずは、作品中で最低限抑えるべきポイントとして3つのことを振り返ろうと思う。
「新エヴァンゲリオン」で考えるべきポイント
その1:綾波と式波の正体とアスカの質問
エヴァンゲリオン新劇場版での重要な設定変更の一つが「惣流アスカ・ラングレー」の名前が「式波・アスカ・ラングレー」となったことだろう。最後の最後までその理由は明らかにならなかったが、「綾波」、「式波」そして「真希波」は「オリジナルをもとにしたクローン(あるいは人造人間)」であり、サードチルドレン碇シンジに対して好意を持つように操作されている存在であった。
つまり、3人とも同じ性質を持っているためにその名前が揃えられたのである。
そして真希波マリも、レイ、アスカ同様に調整されているので、碇シンジに好意を持つようになっている(「わんこ君」を「くんくん」していたのはそういうことだったんだね)。
ここで重要なのは「調整されていた」という事実である。
そしてもう一つ。作中シンジは「エヴァQ」でアスカがシンジをガラス越しに殴った理由を聞かれそれに答えるが、なぜあのシーンが必要だったのだろうか?
その2:セットで戦うシンジとゲンドウ
物語の終盤「マイナス宇宙」の中になる「ゴルゴダ」にたどり着いたゲンドウとシンジは漸く親子喧嘩をすることができたが、彼らがエヴァで喧嘩していた場所はなんと「特撮のセット」であった。
これはどう考えても何かしらの意図があるに決まっている。
その意図とは何だったのだろうか?
その3:ラストシーンの実写感
物語のラストでシンジとマリは二人で駅から飛び出すが、そこからカメラは上にパーンして周りの町並みを見せる。
その町並みは実写、あるいは実車っぽい映像となっている。
なぜ25年もかけて完結させたアニメーション作品のラストが実写なのだろうか?
実写といえば旧劇場版のラストを思い出すが、はて、なにか関係があるのだろうか?
「虚構」を解体する物語
「虚構」を解体して現実へ戻る
上で述べた3つのポイントは虚構の世界から徐々に現実の世界に戻るステップとなっている。
綾波や式波たちが「調整されていた」という事実はアニメや虚構の中にある「ご都合主義」に対する「説明」になっているとともに、我々が感じていた「アスカのシンジへの好意」や「レイのシンジへの好意」のある種の否定にもなっている。つまり、「内向的で、いつも言い訳をして、逃げたかと思ったら戻ってくるような優柔不断でどうしようもない男に周りの女が好意を寄せるような都合の良いことなんてあるわけ無いだろ?そのように仕組まれていただけなんだよ」と言っていることになる。
ファン心理としては複雑だが、庵野監督の意図としては、我々映画を見ている人々(あるいはエヴァンゲリオンに囚われた人々)にかけられた「フィクション」という魔法を解く第一段階を提供しているということになるだろう。
では第2段階はどうだったかというと、アニメの中で特撮をやることで、「我々が見ているものが虚構である」ということを如実に見せる事によって実現している。
そして第3段階として、実際の町並みを見せることで、映画館を出た後「映画を見ている人々(エヴァに囚われている人々)」が帰るべき場所」を提示している。早い話が「現実に帰れ!」と我々は言われた訳である。
なんとも説教臭い話ではあるが、実際説教しているのだと思う。それはまさに旧劇場版で起こったことと実のところ変わらない。
そりゃそうだよ。いつまでもエヴァエヴァと言っていてはいけない。
しかし、我々への説教だけかというとそうでもないだろう。
「虚構」を作る罪
我々は「現実へ帰れ!」と言われたわけだが、こちらとしては「作ったのはお前だろ!」というツッコミを入れたくもなるわけである。しかし、そんなことは庵野監督も百も承知であり、そのように考えると。例えば「調整されている」とい事実が明かされたことも「僕がやりました」という罪の告白に見えなくもない。
ただ、これについても旧劇場版のラストとそれほど変わらないかもしれない。
旧劇ラストの「気持ち悪い」も「お前ら気持ちりぃんだよ!早く帰れよ!」というメッセージだったに違いないのだが、一方で「こんなアニメ作ってる俺って気落ち悪いよね」という自己否定の告白だったのかもしれない(だって「気持ち悪い」と言われたのは庵野監督の「分身」であるシンジくんだったからね)。
そして今回の「シン・エヴァンゲリオン」では自らが作った虚構の世界を、自らの責任によって解体する姿をシンジくんにのせて提供し最終的に「エヴァを殺す」ことによって「な?これでいいだろ?ちゃんと責任をとったぜ」というメッセージが伝わるようになっている。
作中で、アスカがシンジにエヴァQのなかでどうして殴ろうとしたのか分かるかと聞かれたシンジは「生かすことも殺すことも自分で決めなかったから」と答えるが、これも庵野監督の告白のように見える。「エヴァンゲリオン」というコンテンツをどう取り扱っていくのかを庵野監督自身も悩んでいたのだろう。しかし今回監督は「ちゃんと殺すこと」を選んだ
「マイナス宇宙」の中にあった「ゴルゴダ」は、エヴァンゲリオンの創造主である庵野秀明監督の脳内、またはアニメの制作現場だろう。
エヴァ世界を解体できるのはそれが創造された場所だけである。そこで作っては壊し作っては壊しを繰り返しながら、ようやくエヴァのない世界にたどり着いたわけである。
なんか寂しい話であるし、その寂しさを誰よりも感じているのが庵野監督自身であろう。その辺の寂しさが「さよならすべてのエヴァンゲリオン」というシンジの言葉に込められているに違いない。
何れにせよ、これほど懸命にエヴァを解体したのだらから、奇跡的に庵野監督に会えたとしても、本人の前で「エヴァ」という音声を発してはいけないような気がする。
それでもなおついてくれた「小さな嘘」
確かに「シン・エヴァンゲリオン」は「エヴァという虚構」の解体であったわけだが、庵野監督は虚構をもう作らないのかといえばそうではない。それを表現しているのが真希波マリという存在である。
「綾波」と「式波」がシンジに好意を持つように「調整」されているということは、わざわざ名前をあわせた「真希波」だって同じだろう。
ということは、結局は主人公シンジに好意を持つのも「ご都合主義」である(そもそも美人である時点でご都合主義となっている)。
ただ今回のシンジくんは「エヴァのない世界」を作るため懸命に頑張ったし、結局はそれを達成したわけである。物語の主人公に「なぜか」好意をよせるという状況ではなく、一応理由付けはできる。
美人であるというご都合主義は変わらないけれど「俺はこれくらいの嘘はこれからもついていくよ」という「ものづくり宣言」になるのではなかろうか。
最後の最後に「さーびすさーびす!」で終わってくれたわけである。
この宣言を受けて我々がなすべきことは、庵野監督のこれからの作品を「適度な距離」を保ちながら楽しみ、変わらない日常を頑張って生きていくことに違いない。
変わらない日常はしんどいけどね。
まとめ:結局どういう話だったのか?
以上のことをまとめると、
「シン・エヴァンゲリオン」は「綾波たちの調整」、「特撮のセット」「実写的ラスト」という段階を踏むことによって、エヴァンゲリオンの世界を徐々に解体してく作品となっている。それは我々見る側に対して「いつまでもエヴァに囚われていないで日常へ帰れ」というメッセージであるけれども、そもそも多くの人がのめり込んでしまうようものを作ってしまった庵野監督が、エヴァを殺すことによってその責任をきちんと取る作品ともなっている。一方で、真希波マリとともに歩むシンジをラストに見せることに酔って「それでもこれくらいの虚構はつくるよ」という意思表明にもなっている。
ということになるだろう。
もちろん庵野監督の本音はわからない。そもそも「さよなら」というシンジの言葉を使えば寂しく感じるが、ポスター等で使われた「さらば」というフレーズには颯爽とした清々しさがある。したがって「さらば」の方をとった場合の庵野監督の思いとしては「あ~終わった終わった、もうエヴァをやらずに新しいことやるからそこんとこよろしく!」くらいのものになるだろう。
、
結局の所本人の気持ちはわからない。大切なことは、私にとってはこの記事に書いてきたような作品に見えたということである。
さて、庵野監督は今後どんな作品を作るのだろう?またアニメを作ってくれるだろうか。まあ、9年待てた俺たちに敵はない。いつまでも待とう!。
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