「すずめの戸締まり」は2022年11月11日に公開された新海誠監督による劇場用アニメーション作品である。前作「天気の子」から3年ぶりの新作であった。
「雲のむこう、約束の場所」から新海作品のファンであるが、なにやら今回は「もしかしたら俺は新海作品に飽きているかもしれない」という一抹の不安があった。おそらくは女子高生が主人公であることが一番の原因だったとは思うが、せっかく新作を見に行って「新海誠は終わった」とかつぶやいてしまうクソ寒なおっさんになってしまうのが何より怖かった。
ただ結果的にはそんな事はなく「ああ、いい映画だったな」と映画館を出ることができた。
今回はそんな「すずめの戸締まり」のあらすじを振り返りながら、その面白さについて考えていこうと思う。ただ「あらすじ」といっても全部書いちゃうのでその点はお気をつけください。
「すずめの戸締まり」のあらすじ(ネタバレあり)
出会い
物語の主人公は17歳の高校生 岩戸鈴芽(いわとすずめ)。宮崎県の鈴鹿な港町で叔母と二人で暮らしている。
いつもと変わらないはずだったある朝、登校中の鈴芽は美しき青年 宗像草太(むなかたそうた)と出会う。
彼は「近くに廃墟はないか?」と奇妙な質問をしてきたが、鈴芽は山向にある廃墟となった温泉街の場所を素直に教えた。
その場では分かれた鈴芽だったが、草太のことが気になり後を追って廃墟に向かった。そこで草太に出会うことはできなかったが、鈴芽は不思議な扉を発見する。その扉を見守るように突き刺さる不可解な「石」を引き抜くと瞬く間に姿を変え、なにやら白い生物となってその場から逃げていった。
その状況に困惑しながらも、導かれるように扉を開いてしまう鈴芽。扉の向こうには別世界が広がっていた。しかしその世界に入ることはできなかった。なにか不穏なものを感じた鈴芽はその場を離れ学校に向かった。
ミミズ出現
学校にたどり着いた鈴芽だったが、なにか不思議な「予感」を感じ取る。直後地震が発生。鈴芽は温泉街の廃墟付近から禍々しい物体が出現していることに気がつく。
その存在を視認できているのは鈴芽だけであった。
不意にその場に美しき青年がいるかもしれないと考えた鈴芽は、再び廃墟に向かった。
廃墟にたどり着くと、鈴芽が開けたままにしていた扉から禍々しい存在が溢れ出した。やはりあの存在の発生源はこの扉だった。
そしてそこには、懸命にその扉を閉じようとする青年の姿があった。
苦戦を強いられたものの、鈴芽は青年とともにその扉を閉じることに成功する。傷を負った青年を鈴芽は自宅に招くのだった…。
傷の手当をする最中、その青年の名は宗像草太(むなかたそうた)であること、学生をしながら「閉じ師(とじし)」の仕事をしていること、「閉じ師」とは日本各地にある「後ろ戸(うしろど)」の状態を確認しつつ必要とあればそれを閉じる仕事であることが明らかとなった。扉から出現した存在(ミミズ)こそが、日本各地で発生する地震の正体であることもまた、同時に明らかになった。扉から現れたミミズが最大化し、地上に倒れることによってこれまでの大地震は発生してきたのだ。さらに、本来扉を封印するためにあるはずだった「要石(かなめいし)」が何故かなくなっていた。
そんな折、窓の外にやせ細った白い生き物がやってきた。
鈴芽の「かわいい」の一言を聞いたそのやせ細った生物は、みるみるうちに生気を取り戻し元気な白猫の姿を取り戻す。
草太はその奇妙な存在にすぐさま警戒するが、それを邪魔に思ったその猫の力によって椅子の中に封じ込められてしまった。その足の一つない椅子は、鈴芽が幼少期に母が作ってくれたものだった。
不可思議な能力を見せた白い猫は、すぐさま逃げ去り、草太もその後を-椅子の姿で-追うのだった。草太は一人で追跡を試みようとしていたが、放っておけない鈴芽は聡太とともに白い猫を追うことを決断する。
鈴芽はその猫の雰囲気から「ダイジン」という名前をつけた。
ダイジンを追え!
SNSを駆使し、白い猫の目撃情報を追う二人は、フェリーで一路愛媛に向かった。
ダイジンの追跡中の山道で、鈴芽は同い年の高校生 海部千果(あまべちか)に出会う。すぐに打ち解けた二人だったが、鈴芽は再び山中から「ミミズ」が出現していることに気がつく。その場所は廃校がある場所だという。
廃校に向かうと、玄関のドアが「後ろ戸」と化しており、その中からミミズが吹き出でいた。そしてそこにはダイジンの姿があった。
ようやくダイジンに肉薄したものの、「後ろ戸」を閉じなくてはならない。
椅子の姿に変えられてしまった草太はその使命を鈴芽に託す。「後ろ戸」を閉じるためにもっとも重要な要素はその土地に蓄積した人々の思い、記憶であった。鈴芽はその思いに耳を傾け、「後ろ戸」を閉じることに成功する。
大仕事を終えた鈴芽と草太だったが、結局ダイジンを取り逃がしてしまった。
なんの計画もなしに家を飛び出した二人だったが、その夜は千果の両親が経営する民宿に宿泊させてもらえることになった。「なにかあるのだろう」とは思いながら、千果もその両親も、何も聞かずに鈴芽に寄り添ってくれた。
翌朝、鈴芽と草太はダイジンを追う旅を再開するが、ひょんな事から神戸に帰る車に載せてもらえることとなった。車の主はスナック「はぁばぁ」を経営する二ノ宮ルミ。息子と娘を連れて自宅に帰る途中だった。
神戸についた鈴芽はスナックの裏方で働くことを条件に、ルミの自宅に止めてもらえる事になった。ここでも鈴芽は何かを詰問されることもなく、寄り添ってもらうことができた。
その夜、廃墟となっていた遊園地から「ミミズ」が出現。鈴芽と草太は遊園地へと向かった。
ここに登場する遊園地は、新海監督よると「架空」なのだが、有志の頑張りによって、
鷲羽山ハイランド、おとぎの国遊園地、道の駅フルーツフラワーパーク、那須川ハイランドパークがミックスされたものではないかと言われている。
ここでは観覧車の扉が「後ろ戸」となっていた。
「後ろ戸」を鈴芽に託した草太はダイジンを追跡する。苦戦しながらダイジンに肉薄し「要石にもどれ!」と訴えるが、ダイジンからは「その役目はお前に移した」と不可思議な返答を受ける。
一方鈴芽は「後ろ戸」に苦戦するばかりではなく、扉の向こうの世界に取り込まれる寸前となっていた。やむなく草太は鈴芽を助けることを選択し、「後ろ戸」はなんとか占めることに成功する。
だが、再びダイジンには逃げられてしまった。
東京決戦
ダイジンの追跡と東京にあるはずのもう一つの要石を守るため、そして入院中の師匠である祖父に会うため、鈴芽と草太は東京へ向かう。
東京についた二人は祖父に会う前に草太の自宅アパートにある文献を調査する。都内にあるはずの要石の所在を調査するが、存在まではわかってもその所在が分からない。
そんな時、草太の友人 芹沢朋也がアマートを訪れる。椅子の姿で対応するわけにもいかず、代わりに鈴芽が対応した。
少々見た目は派手だが、草太と同じく教育学部に所属し教員を目指している。教員採用試験に姿を表さなかった草太を心配してわざわざ部屋まで来たのだった。
少々口輪悪かったが、信頼の置ける人物のようだった。
芹沢の対応を済ませると、二人は草太の祖父のもとに向かった。しかしその途中、再びダイジンと遭遇する。
今度こそと懸命に追跡する二人だったが、ダイジンが橋下の電車用のトンネルに逃げ込み追跡が困難になる。
そしてついに、東京の「後ろ戸」から「ミミズ」が出現する。その大きさはこれまでに見たものを大きく凌駕する巨大なものであり、都内にあった東の「要石」も引き抜かれたと思われた。
鈴芽と草太はダイジンを「要石」として「ミミズ」を封印することを試みるが・・・「要石」としての役割はすでに草太に移されており、「ミミズ」を封印するには草太が「要石」になる他なかった。ギリギリの選択を迫られる鈴芽と草太だったが、やむなく草太を「要石」とする選択をする。
東京を覆い尽くした「ミミズ」はその姿を消した。しかし、それには草太という大きな犠牲を必要とするものだった。草太を失った鈴芽は絶望しながらも都内にあった「後ろ戸」を発見する。
「後ろ戸」のむこうの世界には「要石」となった草太の姿があるが、どうしてもその世界に入ることができない。
そこにダイジンが現れる。
これまでずっと鈴芽と遊んでいるつもりだったダイジンは親しげに鈴芽に話しかけるが、草太を失う原因となったダイジンを鈴芽は拒絶する。すると、みるみるうちにダイジンは痩せ細り、初めてであったときの状態に戻ってしまった。
方法はわからないものの、草太を諦めることができなかった鈴芽は草太の師匠である祖父に会いに行くことにする。
草太の祖父 宗像羊朗(むなかたひつじろう)はひどい病状ではあったが、助けを求める鈴芽に対して「どこに行けばよいかはわかっているはず」と鈴芽に進言する。
思い立った鈴芽は、自らのルーツである東北地方の故郷へ旅立つこと決める。
雨降って地固まる
北へ向かうことを決めた鈴芽は、再び芹沢に出会う。草太の一大事であると芹沢を無理矢理に説得した鈴芽は、芹沢が運転する車で一路北へ向かう・・・はずだったのだが、そこにようやく鈴芽に追いついた叔母の環が現れた。
すぐにでも鈴芽を連れ戻そうとする環だったが、頑ななその姿に根負けした環は自らも同行することを条件に鈴芽の旅を許可する。
そこにやせ細ったダイジンが現れる。鈴芽は特に拒絶することなくダイジンを受け入れた。
芹沢は拒否権もなく厄介な乗客二人と一匹を乗せ、鈴芽の故郷へ車を走らせる。
絶妙な空気の中、一行はサービスエリアに到着する。
それまでの道程でも小さな言い合いがあったものの、これまでに蓄積したものがここでついに爆発する。特に、叔母である環は、鈴芽とのこれまでの生活の中にあった不満を我を忘れたように絶叫しぶつけてしまった。
鈴芽としても、言葉にしないだけで環が感じているかもしれないと思っていた不満ではあったが、実際に言葉にされた事によって大きな衝撃を受ける。
ただ・・・環の背後には大きな黒猫の姿がった。環の絶叫はたしかに本音の一部だったかもしれないが、それは謎の黒猫の仕業だったかもしれない。
何れにせよ北へ向かわなければならない一行。現れた不思議な黒猫を含め、三人と二匹の重苦しい旅が続く。
目的地直前、芹沢のポンコツ中古車が土手から転げ落ちてしまう。東北自動車道を懸命に北上した車はここでお役御免となってしまう。
歩いて目的地に辿り着こうとする鈴芽だったが、環は近くにあった古びた自転車に鈴芽を乗せて行くことを決める。
サービスエリアで感情を爆発させた二人だったが、寧ろそのことは二人の関係を改善し、目を背けてきた「わだかまり」を解消してくれたようだった。二人は母娘としての再スタートを切ることができたようだった。
On the way home
鈴芽の目的地はかつて母と暮らした自宅があった場所だった。震災によって母を失った鈴芽にとって、この土地は目を背けざるを得なかった故郷であったが、草太を救うため、鈴芽は自分と対峙することを決めたのだった。
そんな時、ダイジンが鈴芽を導くように歩き出す。ダイジンの向かった先には「後ろ戸」があった。
これまで、ダイジンが日本全国の「後ろ戸」を開いていたと思っていた鈴芽だったが、ここに来てようやく「ダイジンは次に開く『後ろ戸』の場所に導いてくれていた」ということに気がつく。
鈴芽にとっての「心の扉」であるこの「後ろ戸」を通り、鈴芽は草太を取り戻すためむこうの世界に旅立つ。
火山地帯のようなその世界で、鈴芽は草太を発見。封印された「ミミズ」が再び動き出すリスクを覚悟で、「要石」となった草太を救出する。
そして動き出す巨大な「ミミズ」。
「ミミズ」は鈴芽が通ってきた「後ろ戸」から現世に這い出ようとする。
鈴芽と草太は、ダイジンともう一匹の黒猫を「要石」として「ミミズ」の封印に成功する。実は、あの黒猫こそが、東京で「要石」となっていた存在去ったのだ。
「ミミズ」を封印した世界で、鈴芽は幼少期の自分に邂逅する。それは鈴芽が幼少期、震災の瓦礫の中で母を探す姿だった。鈴芽はかつてこの世界に迷い込んでいたのである。
そんな過去の自分を抱きしめる鈴芽。それは、幼少期に「母」と思いこんでいた人物がしてくれていたことだった。そして鈴芽はその人がしてくれたように、かつての自分に三本足の椅子を手渡す・・・。
おお仕事を追えた鈴芽と草太は現世に戻る。
草太は再び日本全国にある「後ろ戸」の状態を見る度に出るという。
再びの別れを惜しみながら、鈴芽は環と宮崎へ戻る。その道中、鈴芽と環はお世話になった人々との再開を果たし母娘としてお礼をするのだった。
宮崎に戻った鈴芽は日常を取り戻していた。するとそこに、「廃墟」を探す美しき青年が現れるのだった。
以上が「すずめの戸締まり」のあらすじである。映画館で一度見た記憶を頼りに書いているので、不正確な部分も多いとは思うが、概ねこんな噺だったと思う。
では、こんな「すずめの戸締まり」のどんなところが面白かったのだろうか?
「すずめの戸締まり」の面白さ
何も聞かない優しさと、聞かずにはいられない親心
「すずめの戸締まり」は日本を舞台にしたロード・ムービーとして始まる。それは「地域振興映画」とういう体裁をとり、日本の様々な「地域」を我々に印象付けてくれる。いわゆる「聖地巡礼」をする根拠をこれでもかと与えてくれたし、きっといつか私も訪れるのだろう。
そしてそこで鈴芽は多くの人に支えられながら東京にたどり着く。
その人々は決して鈴芽の事情に深入りすることはなく、「なにかあるに決まっているが、そんなことよりもその状況を支えてあげよう」極めて理想的な行動をとってくれる。
これは結局、成長期、反抗期、あるいは思春期にある人にとっての「そうであってほしい親の姿」だろう。
「自分で決めたい」、「自分でやりたい」という強い自我を持ち始める若者にとって、なにをするにしても自分に干渉してくる親という存在は極めてウザったいものであるし「自分を信用してくれない存在」と成り果ててしまう。
ただ・・・親なんてそんなものである。
子供からすると、親の干渉、疑念、あるいは否定はなんとも不愉快なものであるが、親は生まれた時からず~っと自分を見続けてきたのだとうことを忘れてはならない。つまり、すぐになにかに飽きた自分を見てきたし、自分を大切にしない自分を見てきたし、親が親であるというその一点で親を頼っていた自分を見てきたのである。
親としても子供を尊重してやりたいとは思っているものの、心の何処かに「またか」という疑念も残るのである。さらに面倒なのは、「自分を頼ってほしい!」という欲求もある。経験からくる冷めた目線と親としての欲求が、子供の成長と対立してしまうということになり、有史以来すべての親子がこの問題と戦い続けてきた。
そして人類はその解決策をおそらく一つしか発見していない。つまり、「親子喧嘩」である。
一生に一度は親子喧嘩を。
「すずめの戸締まり」はその序盤からロード・ムービーなのだが、真のロード・ムービーは結局「東京」から始まる。
鈴芽の東京までの旅は単なるアクシデントであり、彼女の旅ではない。もちろん色んな意味で加速度はついたが、彼女が自分を見つめるためにはどうしても故郷である東北を目指さなくてはならない。それは彼女がず~っとペンディングにしていたものとの対峙であり、ある意味とてもつらい旅でもある。それでもその旅を後押ししたものは大切なものの喪失だった。
そこで終わっていればきっと「秒速5センチメートル」までの新海作品だが「星を追う子ども」以降、新海作品は「その先」を一生懸命に映画いてきた。鈴芽の旅も「その先」を目指すものだった。
さらにその旅は、鈴芽を我が子のように育て上げた叔母にとっても大切な旅となった。
サービスエリアでの彼女の鬼気迫る独白は、彼女の中にくすぶっていた「本音」だったかもしれないし、鈴芽がなんとなく感じてきたことでもあるし、映画を見ている我々が真っ先に考えたことだった。
鈴芽としても衝撃的な独白だったかもしれないが、ある意味での「答え合わせ」になったになった事によって、二人の関係はむしろ正常化した。
鈴芽はあの事件で本質的に大人になったのだろうし、叔母はようやく本当の親になることができたわけである。
ただこの事は、本当の親子じゃないという前提がどうしても必要なことではなく、どんな親子も真っ向勝負で喧嘩をすることによってなにか新しい地平にたどり着くものなのではないだろうか。
「すずめの戸締まり」に明確なメッセージがあるとすれば、それは「一生に一度は親子喧嘩を」になるのではなかろうか。
新海誠がおくる「この世界の秘密シリーズ」の終焉
「すずめの戸締まり」は、「君の名は。」、「天気の子」と並ぶ新海誠三部作として語られることになると思う。
その一つの理由は、この三作品が我々の知らない「世界の秘密」を物語の推進剤にしたファンタジー作品であることである。絶妙にSF的な要素を含んではいるが、根本的にはファンタジーであっていると思う。
そういう意味でこの三作品は私にとって「新海誠この世界の秘密三部作」である。
ではなぜこれが三部作であり四部作になりえないのか?もちろん語呂が良いということもあるのだが、決定的なのはやはり、東日本大震災だろう。
「すずめの戸締まり」は明確に東日本大震災の物語である。しかしそれは「君の名は。」と「天気の子」も間違いなくそういった物語であった。これまではなんとかそれを隠蔽しながら「災害」という形で物語を紡いできたことになる。
しかし今回は何一つ隠蔽することなく、真っ向勝負で東日本大震災を扱った。
「天気の子」の公開後に、新海監督が「エンディングに関しては賛否があるだろう」という発言をしていたと思うが、「すずめの戸締まり」のほうがよほど賛否がありそうなものである。
つまり、今回新海監督が直接的に東日本大震災を描いたということは、監督にとってはなにかしらの意味において「峠」を越えたという感覚があったということなのだろう。実際、映画館で配られた「新海誠本」の中で次のように語っている:
「君の名は。」のときは、夢を媒介にして触れていくみたいなことしかできなかったんです。でも、今なら直に手で触れることができるんじゃないか、直に触れるべきなんじゃないかという気持ちが強くなっていった。あるいは、これ以上、そこに触れるのが遅くなってはいけないという気持ちもどこかにありました。
「君の名は。」、「天気の子」、「すずめの戸締まり」は私にとっては「この世界の秘密三部作」だが、実際のところは–みんな気づいていたように–「東日本大震災三部作」であった。そして上の発言でわかるように、「すずめの戸締まり」は大きな「段落」になっている。
物語のラストで鈴芽と草太が要石を叩きつけるシーンはシリーズの終焉を宣言する「句点」だったのだろう。
このように考えると新海監督の次回作は「君の名は。」から始まる三部作とは全く異なるものになるだろう。しかもそれは「コロナ禍」もテーマにはならない。それはすでに「すずめの戸締まり」で描かれているから。
さて、新海監督の次回作はどんなものになるだろうか?
まあ気長に待ちましょう。俺たちにできることはそれだけですから。
おまけ
「ルージュの伝言」
「すずめの戸締まり」の後半は東京から東北へ旅立った。そしてその旅を最初に彩ってくれたのは荒井由実(松任谷由実)の「ルージュの伝言」だった。
もう我々世代は「ルージュの伝言」を聞いてしまったら「魔女の宅急便」しか思い出せない。実際にレコードとしてリリースされたのは1975年なので、私よりも上の世代にとっては本来は別のイメージがあったのかもしれない。
噂によると、「ルージュの伝言」で描かれる「あの人」のモデルは矢沢永吉らしいが、真偽の程を私は知らない。
で、なぜあのタイミングで「ルージュの伝言」が流れたのだろう?それは劇中できちんと明言されているように「旅の始まり」と「猫」なのだが、それだけではないだろう。
「すずめの戸締まり」の前半戦の鈴芽の度は「何も聞かない理想的な人々」に支えられていた。それはなんとも理想的な存在なのだが、それは「魔女の宅急便」でも同じだった。
「魔女の宅急便」の場合は「魔女」という不可思議な存在が絶妙に受け入れられている世界であるが故に、おソノさんがキキを受け入れることが巧妙に「ありうること」にすり替わっていた。それでもなお多くの「理想的な存在」に彼女の日々が支えられていたことに変わりはない。この辺ことは以下の記事でまとめている:
新海作品でも「天気の子」はまさにこのフォーマットにそっており、「何も聞かない理想的な人」に主人公が支えられていた。「天気の子」に於ける根本的な言い訳は「その人達もなにか思い悩んでいるから」ということだったと思う。これについては以下の記事でまとめた:
「すずめの戸締まり」でも何かしら「理想的な人々」が出てきたが、今回その人々が理想的であった理由は「その人達もかつてそうだった。」ということになるかもしれない。
何れにせよ、本来ありえないような物語を支えるためには何かしらご都合主義的な存在が必要になる。あとはその「都合」をどのように設定するかだろう。
そして、そのように物語を紡ぐ以上、そして女性が主人公で猫まで出てきてしまう以上、「ルージュの伝言」は必須の曲だったのかもしれない。ある意味で「星を追う子ども」と同じ思想があったと言えるのだろう。
抑制的な「RADWINPS」
「君の名は。」以降、新海作品で決して無視してはならないのは「RADWINPS」、あるいは野田洋次郎の音楽だろう。
「君の名は。」、「天気の子」、「すずめの戸締まり」を比べた時に、最もその音楽との親和性というか化学反応が際立ったのは「君の名は。」だったと思う。みんなも「Sparkle」が流れたときは鳥肌立っただろう?
個人的には「天気の子」は音楽が多すぎた。どれも素晴らしい曲だったし曲そのものとしては好きなのだが、「映画」としては少々ゲップが出てしまうくらい音が多かった。
その真逆に位置しているのが「すずめの戸締まり」だろう。
相変わらず流れる曲は素晴らしかったが、その利用は極めて抑制的だった。それを物足りないと思う人もいるかもしれないが、個人的にはあれくらいが良いと思う。多分「君の名は。」がうまくいきすぎていたのであって、あんなことそうそうできるものではないのだろう。
これからも「新海誠+RADWINPS」のコンビが続いてくれることを望むが、おそらくこれ以降は「すずめの戸締まり」くらいのバランスになるのではないだろうか。
父親不在の物語-ラピュタの逆-
「すずめの戸締まり」を最も単純化すると「鈴芽の成長物語」である。そしてその成長過程で「実の母親にさよならをしつつ、育ての母親を母として取り戻す物語」であった。つまり、これは女性の物語である。
そして全ての男が気づいた通り、この作品には鈴芽の父が登場しない。それどころか初めからいなかったような扱いである。
ただ、我々はそのような作品をすでに知っている。つまり、「天空の城ラピュタ」である。
「天空の城ラピュタ」では主人公パズーの父については語られるが母について一切語られない。壁にかかった写真にその姿を僅かに確認できるのみである。
ではなぜそんなことになっているのか?
理由はおそらく二つ。一つはそもそも「父を取り戻す物語」であることと、母について描いている暇がないということ。
特に深刻に聞いてくるのは2つ目の理由だろう。映画館に聴衆を5時間拘束できるなら描けることは増えるだろうが、人の集中力はそんなに続かないし、そんな映画を流してくれる映画館もない。すべての映画は2時間前後で終わらなくてはならない。
となると、何を描くかよりは何を描かないかを選ぶことになるだろう。
「すずめの戸締まり」においても、設定としては父親のものがたりはあると思うがそれを描いていては2時間前後の物語として鈴芽の成長や「母親を取り戻す物語」は描けない。
今回だけは男や父が割りを食ったということだろう。でも、それでも良いじゃないか!俺たちには「天空の城ラピュタ」がある!
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