これまで「天気の巫女の歴史」、「『僕たちは大丈夫だ!』の意味」について書いてきたが、今回はラスト近くの帆高のラストランについて考えようと思う。
特に帆高がその道中、有刺鉄線によってその左の頬に傷を負った理由を考えたい。もちろん「必死さの表現」に違いないのだけれど、もう少しだけ想像の翼を羽ばたかせようと思う。なぜわざわざあんなシーンが挿入されたのだろうか?
「天気の子」における帆高の目的意識の変化
帆高の傷を理解するための補助線として、日本史上最も有名な「走る男メロス」の物語を思い出そう
帆高よりも頑張って走り、裸になったメロス
「走れメロス」といえば、あの太宰治が書いた摩訶不思議な物語である。主人公メロスは妹の結婚式のために訪れた町の異変に気づき、義憤に駆られ、人々を苦しめる暴君ディオニス王の暗殺を企てる。あえなく暗殺に失敗したメロスは処刑されそうになるが、親友のセリヌンティウスを人質に、妹の結婚式に出席するための3日間の猶予を手にする。取って返して妹の結婚式を終えたメロスだったが、セリヌンティウスの元に帰る道中なぜかわからないが様々なトラブルに見舞われ、疲弊したメロスはセリヌンティウスのもとに向かうことを諦めかける。そんな極限状態のメロスは偶然にも岩清水を発見し、セリヌンティウスを救うラストランに向かう。その疾風の如き走りは壮絶を極め、終いには真っ裸になっていた。ギリギリのところで処刑場にたどり着いたメロスはセリヌンティウスを救うことに成功する。お互いを信じあう2人の姿を見てディオニス王は人を信じる心を取り戻した。結果的に英雄となったメロスに一人の少女がマントを渡す。メロスは自分が裸であることに気づき赤面する。
「走れメロス」とはだいたいこんな話であった。もちろん太宰治の語り口が素晴らしいので、こんなあらすじでは表現できない本質的な魅力があるが、ポイントは「なぜわざわざメロスを裸にしたのか」ということである。もちろんこれも「必死さの表現」であるのだが、それだけではないだろう。
理由の1つはラストの「赤面」を導くためである。最後の最後メロスは信頼のために必死に走り暴君の心持ちさえ変えた英雄となった。しかし忘れてはならない。あいつ一度は諦めそうになったのである。そもそもなんの保証もないのに友人を人質にするようなイカレタ男である。英雄となったメロスのそういった「ひどさ」を茶化して英雄メロスを人間に引き戻す言い合いがラストの「赤面」である。そういったギミックとしてメロスは裸になっている。
しかしメロスが裸になった理由はもう1つあるだろう。それは根本的なメロスの行動原理の変化の表現である。メロスは確かに友のために走ったのだけれど、やはりそもそも論として、暗殺に失敗した自分が素直に処刑されればよかったし、友人を人質にするというのは話がおかしい。なぜそんなことになるのかといえば「メロス」には基本的に「自分」しかないのである。暴君を暗殺しようとするのも、それでもなお妹の結婚式に行こうとするのも、平気な顔をして友人を人質にするのも、全ては「自分ルール」に基づく行動である。彼は自分自身を疑ったことがなかったのである。
しかしそんなメロスも、信じがたいトラブルに見舞われ、友人のもとへ向かうのを諦めそうになった。あの瞬間メロスは初めて自分に裏切られた訳である。誰よりも自分自身を信じていたメロスにとってその事実は耐え難いものだったに違いないが、それがメロスを変えた。
復活したメロスは「自分ルール」のために走っているのではない。彼は本当に「他人のため」に走り出したのだ。その行動原理の根本的な変化が「裸のメロス」として表現されているのである。
帆高の頬の傷について書きたかったのにメロスについて語ってしまったが、結局の所「裸になったメロス」と「左の頬に傷を負った帆高」は同じだと言いたい訳である。
初めて誰かのために走った帆高
帆高の旅はそもそも「自分のための旅」であった。というよりも、自分のためじゃない一人旅などそうそうあるものではない。しかも帆高の場合は「ここではないどこかへ」の旅であった。帆高は生まれて初めて「自分ルール」の中で生きたのである。もちろんそれは苦難の旅なのだけれど、誰か(親)のルールで安穏と生きるよりは自分のルールで苦しい日々を送ることを帆高は選んだのである。
そんな帆高は確かに自分ルールで生きていた。陽菜を最初に救ったときも、あれは「陽菜のため」ではなくて「ここで行かなくては自分の正義が壊れる」という「自分ルール」に従っていたのである。その後の衝動的な発砲も、陽菜のためというよりは目の前の男に対する復讐心に違いなかった。
ことはそれに留まらない。陽菜の「晴れ女」としての力を知った後に、それを職業化しようとしたのも別に陽菜のためではない。そもそも、陽菜の仮定の事情を知ったのは、そういうことを思い立った後である。結局帆高は自分のために生きていた。
そんな帆高を本質に変えたのはもちろん陽菜である。彼女はその身を犠牲にして、首都圏に晴天を復活させた。そんな「利他的」な行動を目にした帆高の行動原理は根本的に変化してしまった。帆高は自分のために走ったのではなく、ほんとに陽菜のために走ったのである。その帆高の内面の変化が「左頬の傷」として表現されている。彼の生き方は本当に変わってしまったのだ。
おまけ:アシタカ彦の涙
「走れメロス」を補助線として帆高の物語を語ったが、帆高やメロスのように「決定的に生き方が変わったシーン」を見せてくれた人物がいる。「もののけ姫」のアシタカ彦である。
映画「もののけ姫」でアシタカは、良いことをしたのにふるさを追われ、自らにかけられた呪いとの孤独な叩かいを強いられた。アシタカの旅の前半戦はそんな自分を救うための旅だった。
ところが、アシタカが期待を寄せた「シシ神」もアシタカの呪いを解いてはくれなかった。その絶望の中でアシタカは涙を流す。その涙の前後でアシタカの行動原理は明確に変化している。その前は自分のため、その後はサンのためである。
こう考えるとアシタカの旅も「メロスの疾走」と同じだったのかもしれない。
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